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他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば すなはちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ/正像末和讃 親鸞聖人御作 ♦唯信:九坊院より言の葉だより♦2020年11月発信【Posted Article Scrap】

唯信◇2020年11月晩秋号

謹みて 慈光照護のもと、お念仏ご相続の事と拝察申し上げます。
晩秋の時節をいかがお過ごしでおられますか。本堂での法要の休座や、ミニ法話会・『築地新報』発送作業(唯信会)のお休みは継続していますが、それぞれのご家庭の年回法要やご祥月命日で仏事のご縁を重ねて頂き有り難く存じます。また、本堂・庫裡改修工事へのご懇志を寄せて下さいまして、重ねて御礼申し上げます。

さて、「世も末だぁ」という一言を、どんな時に発したり、聞いたりしますか。「世の末」「末の世」は、いずれも「くずれ衰えた状態」を表す言葉ですから、ひどく正しくない出来事や、まったく受け入れがたい状況などに直面して思わず洩らしてしまいますが、もともとは、仏教の正像末(しょうぞうまつ)という正法・像法・末法の3つの時代のとらえ方が由来です。正法(しょうぼう)は、教え(仏陀の教法)と行(実践)と証(さとり)の3つがすべてそなわっている時代、像法(ぞうぼう)は教と行はあるが証はなく、末法(まっぽう)は教のみあって行も証もない時代。その年限には諸説あるそうですが、正法は500年、像法1000年、末法1万年が一般的とされています。お釈迦様がご入滅(亡くなられて)後、仏教が徐々に衰微していく様子を示しています。とすれば、今は末法の真っ只中です。親鸞聖人も末法に生まれ、末法を生きているという強固な自覚をお持ちでした。しかしながら、聖人最晩年に記した116首を収めた『正像末和讃』のなかで、正法・像法・末法すべての時代に通じる本願念仏を讃嘆されています。

他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ
【意訳】他力の信心を得る人は、仏の教えを敬い信じて喜ぶので、釈尊はこのものを、わたしのまことの友である、とおほめになっている。(出典『三帖和讃』浄土真宗本願寺派編)
このたびは、『正像末和讃五八』を引きました。私は、『三帖和讃』のなかでも『正像末和讃』をご拝読致しますと、東京仏教学院(築地本願寺内)の恩師である林水月(はやしすいげつ)和上(本願寺派勧学)が記された『ご和讃の法話―正像末和讃―』を読み返したくなってしまいます。
ご著書の中で、親鸞聖人は、『大無量寿経』に説かれた世尊(お釈迦さま)と阿難(あなん)尊者(そんじゃ)との問答に注視されたと指摘しています。問答の概略は、『これからお釈迦さまが重要な説法を始められるという時に阿難尊者は師に尋ねる。「何を為しに人間に生まれたのか」と。師(お釈迦さま)は、「教主世尊として阿弥陀如来さまの「本願」と「名号」と「光明」の因縁法を説くために人間世界に生まれた」と答えた』というものです。林和上は、『そこで聖人(引用者注・親鸞聖人)は、真剣になって「何のために人間に生まれ出るのか」となれば、教主世尊が「阿弥陀如来さまの法を説くために……」とおおせになる以上、仏弟子の因縁を恵まれた者として「阿弥陀如来さまの本願・名号・光明の因縁に遇うために生まれています」ともうされました。このように迷うことなく回答する人間になったとき、末法時代に生れた者も、直ちに正法時代の教主世尊を前に座している人間と少しもかわることはないのであります』と綴っています。親鸞聖人の受け止めを深く丹念にあじわい、まさに末法の世に生きる泥凡夫の私を、正法の時代、世尊の眼前へと導いて下さるのです。本願念仏をいただく私をお釈迦さまは良き真の友(親友(しんぬ))とほめて下さっています。アァなんと、うれしく有り難いことでしょう


                                           合掌称佛

                 眞信山蓮向寺:相模原・當麻九坊院
                   住職・シンガー・ソングライター                                                                                     北條不可思(法名:釋難思)