悟るためのメモ
自分を認めるとはどのようなことじゃろうかと、多くの者は思っているかもしれん。自分を認めるということは自分の行いを認めるということなのじゃ。お釈迦様は自分のしたことを見よ、と説いたのじゃ。自分のしたことを見るのであるから、それを認めるのも当然なのじゃ。
大抵の者は自分を正しく認めていないのじゃ。自分のしたことも、自分の歩んだ道も間違いばかりだと思って、後悔ばかりしているのじゃ。そもそも自分のしたことを認め、褒めたりする賞賛したりするという習慣もないのじゃ。自分のしたことを認めず、褒めることもせず文句ばかり自分に言っていたら、やる気もなくなっていくものじゃ。
例えば瞑想を実践していても、今日はうまくできなかった、だから自分は駄目なんだとか、自分に呟いていればいずれは修行さえも嫌になってやめてしまったりするのじゃ。逆に自分のしたことを認め賞賛していればやる気もわいてくるのじゃ。そのように心の中で呟く声にはかなりの効果があるものじゃ。
いつもやる気が出ないとか、自信がないとか感じる者は自分が自分に呟く言葉を、注意して観察するのじゃ。その言葉が自分を認め、褒めたりする言葉ではないと見極めたら、直ぐに捨てるようにするのじゃ。自分を認め、褒める言葉を自分に呟くことを、日々続ければそれが新しい習慣になって心の中に根付くのじゃ。それが自分を認めることになるのじゃ。
しかし自信がない者は自分は褒められるようなことはしていないとか、思うかもしれん。他人と自分を比べたりして、自分は何一つよく出来ないから、何も認めたり、褒めたりすることがないとか思ったりするかもしれん。過去に間違ったことをしたり、今も間違った道を歩み続けるしかないから自分を認められないと思ったりもするかもしれん。
そのように思う者でも、ただ今生きているだけでも認められるべきなのじゃ。今まで生きているだけでも相当に困難なことがいくつもあったじゃろう。世にある苦しみを乗り越えて生きてきた、それだけでも認められ、賞賛されるべきなのじゃ。それが正当な承認と言えるのじゃ。
さらにここにきてわしの言葉に従って実践する者は、過去と現在と未来の全ての仏陀達に認められ、賞賛されるべき者なのじゃ。悟りを求める者も、ただ苦から逃れたいだけの者でも、福楽を求めて善事だけをする者でも実践するならば、全ての仏陀達の賞賛を集める者となるのじゃ。
お釈迦様も、わしも、未来に目覚める仏陀達も、そのような菩薩達を認め、賞賛するのじゃ。そのように実践する者が人間としての最高の目標である悟りに向かって進んでいるのであるからのう。真の叡智がある仏陀達も認め、賞賛せずにはいられないのじゃ。
そのように仏陀達でさえ認め、賞賛する者である自分自身を、自ら認め賞賛すべきなのじゃ。今日も修行を実践したとか、小さなことでも自分を認め、褒めるとよいのじゃ。小さな善事をしたことでも、小さな気づきがあったことでも全てを認め、賞賛するのじゃ。そうすればやる気も湧いてくるのじゃ。そして日々実践し続けることも出来るのじゃ。
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