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悟るためのメモ
今回はある程度修行をした者に与える教えじゃ。
長く修行をしているのに悟りを得られぬ者、心当たりの有る者は聞くが良い。
未だ数息観をしている者や、ヴィパッサナーを始めたばかりの者は読まないでも良い。将来、修行が止まってしまった時に、参考にするとよい。
さて、今世間にはわしが教えた物も含めて、さまざまなヴィパッサナーなとのやり方が伝わっておる。しかし、それらのやり方は実はヴィパッサナーではない。
ヴィパッサナーをしやすくする為の技に過ぎないのじゃ。
真のヴィパッサナーとは己を観察する事。
長く修行しても悟りを得られないのは、観察をしているようでいて、実は観察をしていないからなのじゃ。
観察するのに必要なのは、技ではない。
勇気なのじゃ。
己の心を勇気を持って観察する事が、真のヴィパッサナーなのじゃ。
それが出来なければ永遠に悟りは得られん。
人間の心は恐ろしい事や不安、嫌悪感、劣等感などがあるとそれらの感情から逃げようとする。逃げて見ないようにしたり、蓋をして忘れ様とさえする。
それらの逃げが、心を観察する事を困難にしているのじゃ。
それはもともと生き物に備わった本能じゃ。ゾウリムシでもミジンコでも、炙ってやると逃げていくように、人間も心に苦痛を感じると、それから逃げようとする。
その動きが心の観察を困難にしているのじゃ。
この逃避の働きが人の心に深く、深く根付いて行動の全てを支配しておる。
このように書くと自分の心には逃避などは無いと、思う者もいるじゃろう。それが完全な逃避の姿じゃ。
自分が逃避している事さえ自分に隠す、完全なる逃避なのじゃ。
もともと仏門に入る動機が、何らかの恐怖や不安、孤独からの逃避であった場合、悟りを得るのは更に困難になる。
悟りを得る為には、逃避してきた自分の心を観なければならないのだから。
そのような者は仏門に入る動機から、掘り起こして観なければならないのじゃ。
真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
と、自分自身に強く誓うのじゃ。
そして坐るがいい。
もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。
この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。
修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
何もかも観察するのじゃ。
いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。
そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、始めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
その時が来るまで観察を続けるのじゃ。
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