結婚式を振り返って

2023/12/3に結婚式を挙げました。列席いただいた皆様、お祝いしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

当日は同会場での二次会、夜中のカラオケまで含めると五次会まで楽しい宴が続きました。しかしながら、僕の舌っ足らずなスピーチやパッションフルーツのくだりに突っ込んでくれる方は誰もいません・・・。

無論、花嫁が主役と自覚しつつも、僕の根底にあったのは「形式は妻、思想は僕」という有機的な補完関係です。なので、あの式に(僕ら二人が)込めた想いをまとめたいと思います。


〇ハレの日は無規定であれ


結婚式はもちろんハレの日。僕らにとっても、参加された皆さんにとっても日常を忘れられる非現実的な時間にしたい。会場のスタッフの方の尽力により、少なからず日常とは切り離された特別な場所(×空間)が立ち上がったように思います。

ハレ→ケ→ケガレとは折口信夫の概念図式です。ケ(氣)は気力だとイメージすると分かりやすい。言葉には出来ないけど、なんかワクワクするような感覚。遠足前日のような期待と不安こそ、人に活力を与えます。

逆に日常生活、厳密にいうと定住以降の法生活は人から力を奪います。そのため、定期的に祭りを開いて力を回復し、また法生活に戻っていく。これが折口が考えた民俗学的な生活形式のループです。後年にはジョージ・リッツァが現代版ともいうべき見取り図として、日常をマクドナルド、祭りをディズニーランドに換えて説明しました。

法生活がなぜ気力を奪うのかについては、論より証拠。東京の通勤時間の電車を一瞥すれば即理解できると思います。啓蒙思想をベースにしたフランス革命の失敗と反省から、資本主義は徹底的に批判されてきました。没人格、大衆、末人など、彼らを表す言葉は枚挙に暇がありません。

力を回復するためには、とにかく無規定にこだわるべし。無規定とは文書主義のようなお題目的約束事の反復ではなく、想定外の事態です。妻が同い年ということもあって、ゲストの大半は72年以降の価値前提が崩壊した世代を親に持ちます。そのため、思想史や政治の話はタブー。そういうことを人前で話すのは、「なんかイタイ奴」なんですね。

なればこそ、未規定性の担保には、ギリシャ的なものの見方(パッションフルーツ)や、ブーバーについて、あるいはその価値前提が壊れた時代の映画について触れるのが容易い。僕が「あえて」空気を読まなかったのはそのためです。

ちなみに社会学では行動と行為を区別し、前者を「物理的に記述可能なもの」、後者を「意味を伴うもの」とします。行動の統一をもって社会を記述する均衡システム理論は半世紀前の代物で、現在(というより伝統的なデュルケム主義)は有機体システム理論が専らです。詳しくは触れませんが、前提を弁えているという意味で「あえて」ドレスコード(共通前提)にそぐわない行為をするのも、システムの範疇に含まれます。

「親族が集まっている場であんなスピーチをするのはけしからん!」というご意見には、以上の理由をもって反論します。

〇ブーバーの『我と汝』


当日起こったハプニングや父の歌を聞いて内容を変えてしまいましたが、予定ではマルティン・ブーバーの『我と汝』(1923)について話すつもりでした。理由は、僕の性愛関係の作り方のベースになっていること、そして同年代のゲストが恋愛ベタだから(余計なお世話でゴメンチャイ)です。

ブーバーは<我-汝>と<我-それ>の関係性を区別し、人間は汝inreplaceable youとして眼差されることで、重みと輪郭を得ると提言しました。それreplaceable itとして扱われると、力を失います。

前項でケガレについて触れました。マルクスやハイデガーなど、あらゆる思想家が言うように、資本主義における機械的な労働は、人々の感情的能力を劣化させます。経済学的な組織論で社会が語れないことは、すでにハーバード・サイモンが実証済みです(ちなみに「社会」とは、我々のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体を指します)。

感情的能力の劣化は他人の物象化(it化)を加速させ、力を奪う。非モテ男子の特徴は女性のテンプレ化です。AVやエロゲの影響で恋愛を合目的化し、「良い男」を演じます。が、そんなのは一瞬で見破られます。

理由は簡単です。60年代からのフェミニズムの歴史を踏まえれば分かるように、女性は差別されてきました。現在は第四次フェミニズムと呼ばれていますが、やはり年長世代の方は差別意識を持っている場合も少なくありません。男性は年功序列的既得権益を守っていれば「得をする」体制が現存していますが、女性にそれは少ない。故に、女性は損得外のコミュニケーションを重要視します(処世術的に男性社会の論理に迎合した結果、損得勘定でしか動かない女性も現在は多いですが)。

こういう話をすると、
「フェミニスト面して女の味方かよ」
「お前は女じゃないんだから当事者じゃない」
などと両性から叩かれがちですが、構造主義以降の学問を弁えていれば分かるように、再生産不可能な男の価値は殊更に低い。故に父権とは常に理不尽なものになるのです(レヴィストロース『親族の基本構造』)。

僕はブーバーの発想を念頭に、常に妻のことを自我の延長に見ます。妻だけでなく、すべての人間関係においてそれが達成できないか、日々模索中です。向こうにそういった視座(視角とも)がなければ成立しないのが難しいところですが。

〇家族とは何か


式前日に高畑監督『ホーホケキョとなりの山田くん』を見直して、改めて家族とは何かを考えていました。同作のような清々しい諦めは、確かに『もののけ姫』のアンチテーゼとしてはクリティカルに映りますが、ちょっと身も蓋もなさすぎる。大塚英二は同作を、全体主義に繋がる隣組を肯定するとして批判します。

社会学では家族システムの機能を「感情的安全」に求めますが、そもそも婚姻は、定住(故の農耕)故の蓄財故の継承故の営みです。もともとは血縁をベースにした小集団(バンド)で生活していた人々が、縄張り争いに使うコストをスキップするためにバンド連合(クラン)を組み、暮らし始めたというのが人類学の基本理解になっています。

本当は山田君の父:たかしのスピーチを引きながら、「肩肘張らずに適当にやろうぜ」的なうだつの上がらない話をするプランもあったのですが、前述した理由により、僕にしてはエモーショナルな内容になってしまいました。

スピーチでも放言したように、僕はまだまだ家族の役割を理解できていません。しかし指針になりうる言葉はいくつか知っています。以下の一説が、その一例です。

結婚、とわたしが呼ぶのは、当の創造者よりもさらにまさる一つのものを創造しようとする二人がかりの意思である。

ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』

〇ダスティン・ホフマン主演の『卒業』

『卒業』は十字架のモチーフから半ば強引に持ち出した映画ですが、ここまでに触れた内容に関わる象徴的なシーンがいくつもあります。

例えば、ホフマンが帰省した初夜に親戚のおっさんに呼び出され、「君、これからはプラスチックの時代だよ」と就活について助言を受けます。プラスチックは当時、宇宙開発をめぐる科学技術の成功を象徴するアイテムでした。日本でも初期ウルトラマンが赤と銀のメタリックカラーですよね。

不機嫌そうなホフマン。プラスチックとは同時に無機質で冷たい非人間的な存在です。大人になって働くというのは、プラスチックになることと等しい。先の資本主義の話を思い出せば、容易に理解できるかと思います。

そんなホフマンを誘惑するロビンソン夫人も、同じくクソつまらない社会を生きる一人。この二人の顛末が映画の見所ですが・・・色んな意味で、僕も何かから卒業するタイミングが来たのでしょうか。いやはや。

〇その他


・披露宴のBGMはほぼ妻の選曲です。ロック好きの方が多く好評をいただきました。
・プロフィールの「好きなところ:主体subject」について。好きなところを部分的に取り沙汰すると、余集合的に嫌いなところが浮かび上がるため、論理的に回避しました。
・パッションフルーツは何度もお願いして、ようやっとソースだけつけてもらえました。

以上
これからも我々夫婦をどうかよろしくお願い致します。

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