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骸:第9話 13年前 ー皮膚ー

大規模な災害があると医師や看護師が災害地域へ派遣される。
DMAT(災害派遣医療チーム)が有名だが、それだけではない。

発災時には勤務先から800km程度、震源地付近からは950km程度離れたところにいた。
深く考えていたわけではないが、家を買おうかと思い候補の土地を見に行っていた。
土地を見終え、駅前の広場にいた。
駅の建物の大型ビジョンに地震の速報と津波への注意が映し出されていた。
時間の経過とともに変化していく様子がTVに映された。
3.11の同時多発テロの時にように目の前の映像が現実のものか理解し難かった。
(3.11の時は一人暮らしの部屋でTVの映画を見ていた。途中で切り替わった映像は映画のシーンかと思い、咄嗟には理解できなかった。)

発災から2日後に東京を経由して勤務地へ戻った。
勤務地までの交通を心配はしたが、大きな支障はなかった。

小児科に所属していたが、積極的に夜間の当直に入って救急対応をしていた。
研修医の時の研修が辛く、あれほどやることはないと思っていた救急だったが収入のためだった。
時間外に働きたいと思う医師が少ない病院であったため、時間外の報酬はとてもよく、それ目当てだった。
週に1回は遅番と呼ばれる17−23時までの勤務と当直と呼ばれる23−翌8時までの勤務をしており、院内のどの医師よりも救急対応にあたっていた。

10日ほど経った頃、県から県内のいくつかの病院へ医療者の派遣の要請が来た。
必然的というか他の医師という選択肢も多くなかったため、派遣に応じることになった。
医師・看護師・薬剤師・事務員の4人でチームとなり、準備にあたった。
持っていくことのできる薬品やトイレットペーパーなどの備品を準備した。

県からは8つ程度の病院から医療従事者が派遣された。
マイクロバス2台に乗り合わせて災害地域へ向かった。
車内で他病院のスタッフと自分たちに何ができるのかを話し、他県の病院からの情報を集めた。
夕方に出発し途中SAに寄りながら、翌朝現地に入った。

災害対策本部に到着を報告し、避難所での診療にあたることになった。
避難所の診療でできることは多くなかった。
その現実に直面して、自分自身のというのは違うかもしれないができることの限界を感じながら診療にあたっていた。

診察の中に30歳代の母親と8歳の女の子がいた。
女の子は気管支喘息の発作を起こしていて、それに対しての処方を行った。
母親は余震や環境の変化などで眠れていないとのことだった。
持ってきていた少量の睡眠薬を渡し、「ゆっくりとはできない環境ですし不安なことも多いと思います。ですが、少しだけで身体を休めてください」とお伝えした。
その女性が「ありがとうございます。あなたのところでも大きな地震があったのに、私たちのところへ来て頂いて感謝します」と言ってくれた。
この震災の翌日に大きな地震があったが県からの医療相談などはなく、正直そこまで気にしていなかった。
気にしていなかった分、被災者の方が気にかけてくれたことが驚きであり、心に響いた。
そして、改めて自身のできることの少なさに打ちひしがれた。

濡れタオルで身体を拭き、持参したインスタントラーメンや缶詰を食べ、バスで寝泊まりをして3日間を過ごした。
任務を終え自身の病院へ戻る前に持ってきた食料や備品をタクシーに載せ、診療した避難所を回って配った。
タクシーから見る景色は明らかに日常だった光景とは違っていた。
その変化を眼で皮膚で感じた。
眼の奥の光景とヒリついた皮膚を持ち帰った。

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