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骸:第10話 11年前 ー頭髪ー

医師にはオンコールと呼ばれる勤務がある。
時間外に救急の患者さんが来られ、対応にあたった医師からの相談や入院が必要になった場合などに電話を受けたり、病院へ行って対応したりする。
病棟の入院患者さんについては病院や診療科によって対応が異なる。
主治医制と呼ばれる1人の医師が常に電話を受ける体制、チーム制よ呼ばれる複数の医師が一緒に対応し夜は当番の医師が電話を受ける体制 などがある。

医師は診療科にもよるが、基本的にあまり遠くには行けない。
特にオンコールの日は電話を受けてから20〜30分で病院へ到着する必要がある。
そのため、オンコールの日や主治医制の場合には勤務が終わってからも常に電話に注意しなければならない。
そのため、オンコールに当たっている日は遠くに行くこともなく、アルコールを口にすることもない。

医師をしているとこのタイミングでそれが起こるのか ということが多々ある。
学会や休暇などで人が少ない時に大変な事態が起こる、自身が学会や休暇の予定の直前に患者さんが急変したりする、「暇ですね」などと口にするとその後忙しくなるなど。
それと同じように、入浴時にオンコールの呼び出しを受けることも少なくない。
そのため、入浴時には防水の袋に携帯電話を入れて浴室へ持ち込む。

その日も浴室へ携帯電話を持ち込んでいた。
シャンプーをし終え、髪を洗い流していた時に電話が鳴った。
シャワーを止め、電話を確認した。
登録されていない電話番号からだった。
登録されていない電話番号でもでなければならなかった。
病院のスタッフが使用している電話はPHSからの着信の可能性があるから。
ただ、その電話はいつもかかってくるような病院からの電話ではなかった。
少なくとも7〜8年は耳にしなかった声だった。

大学を留年せずに卒業することまでが住居や食事を提供してくれた人たちに対して果たすべき義務と考えていた。
その時には3歳年上の女も一緒にいた。
大学卒業後の就職先を伝えることもなく一切連絡はしていなかったものの、携帯電話の電話番号は変更していなかった。
表示される名前や残された着信記録を確認しても、電話にでることやかけ直すことはしなかった。

浴室の中でこもって聴こえてきた声は3歳年上の女からだった。
「家が燃えてる」

その女も電話を受け、それを伝えてきたようだった。
ただ、「家が燃えてる」と言われてもできることはない。
「向かって欲しい」とも言われたが断った。
電話を受けてから上司へ連絡し、オンコールと翌日以降の勤務を調整することはできたかもしれない。
だが、そんなことは思い浮かばなかった。
思い浮かばなかったということは、そうしたいとも思わなかったのだろう。
「仕事中で行けない」「明日以降も仕事がある」「できることはない」
そう伝えた。

その女は非難の声を上げた。
「とにかく向かえ」「仕事などどうにでもなるだろ」「できることはあるはず」
そんなことを立て続けに口にした。
言いたいことを聞き終えてから、思っていたことを伝えた。
「今からは行けない。できることはない。もう2度と自分の人生に関わって欲しくない。」
その言葉への返答はなく電話は切れた。

浴室から出て、濡れた髪と身体を拭いた。
バスタオルで拭きながら会話の内容を思い返した。
巻き込まれた人がいないことだけは確認していたことにほっとした。
あの人たちの関係はともかくとして、人として全てを捨てたわけではないことが確認できた。
そして、それでいいと思った。

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