29歳。
1994年10月5日岡山県赤磐市で産声をあげた、くりくりお目目の可愛らしい赤ちゃんがもう29歳
20代最終年。同級生は家庭を持ち子宝に恵まれている奴だっている。
それなのに俺と来たら借金400万、月芸人としての収入1万程、馬車馬のように夜勤、そしてキモシェアハウスに住んでいる。
楽しさを優先して生きてきたので今の生活に後悔は微塵も無いが、流石にこんな29歳になるとは思って無かったというのが本音だ。
もう車とマンションぐらいは買ってると思ってた。明日のご飯もままならない。シャンプーなんかこないだ水で薄めた。
まだまだ何にもなっていない。
俺がまだ中3のときにガチで高校に入らず芸人になろうとして親や先生に「高校は出てくれ」と言われ、一応高校に行ったのだが、芸人になることを我慢出来ずに高校1年生の3学期終わりくらいから学生のお笑いの大会や、ライブに出たりしていた。
当時は難波のZAZA pockets、ワッハ上方レッスンルーム、阿倍野ベルタそこが俺の主戦場だった。
周りは大人の芸人ばっかりなので舐められないように人が死んだり体のどっかがちぎれたりするネタばっかりやっていた。
当時はウケてると思っていたが、多分子どもが頑張って尖ってる感じのネタをしてたから笑われていただけだったと思う。
思い出せるので言ったら、なんか校長先生の話長いから時限爆弾を付けたら良いみたいな漫才をしていたのを覚えてる。
そんなんでもライブに出続けてたらありがたいことに高校生ながらちらほら僕目当てで来る人もいた。
今でも覚えてるのが人生初の取り置き。
TwitterのDMで「明日見に行きます」と連絡があった。
そしてライブ会場のロビーでチケットを持って待っていた。
アイコンは確か男性韓流アイドルで、俺は(ってことは若い女の子…もしかしたらエッチな展開なってまうかも…ヤバいヤバい…)と完全に浮き足立っていた。
すると車椅子に人のぬいぐるみを乗せた、少し歳を召した長袖短パンの女性が向かいから歩いてくるのが見えた。
(まさかこの人…な訳ないよなっ、韓流アイドルアイコンやったしな…)とDMの相手じゃないことをただただ猛烈に祈っていた。
そしたら俺の目の前でピタッと止まって「村田さん」とその女性が言った。
俺は(なんでやねん…むちゃくちゃ変な人やんけ…)とショックで顔を下に向けた。
そしたら足に刺青が入ってた。
怖っ…と思って顔を上げたら腕にはもっと刺青が入っていた。
長袖やと思ってたら服着てんのかってくらいの刺青だった。
そしてビビりながらお金をもらいチケットを渡したら「これ…」と言って手紙をくれた。お礼を言うとその女性は会場に入って行った。
手紙を開けると飛び出す絵本みたいにケーキの絵が飛び出しケーキのど真ん中に濃い字で
「大好き」
と、書いていてめちゃくちゃ怖かった。そして商品券3000円が入っていてそれもなんかめちゃくちゃ怖かった。
そんなこともありながら、高校生芸人として活動をしていた。
卒業したらすぐに養成所に入ろうとバイトしながら貯金もしていたのだが、18歳になってパチンコを覚えてから俺の銀行口座に二度と二桁万円があるようなことは無かった。
高校を卒業する頃、俺は就職するか迷っていた。何故なら高校生ながらライブに出ることで、売れていない芸人を目の当たりにしていたから怖くなってしまった。
もう時期的に就活みたいな時期でも無かったので職業体験所みたいなところに行くことを高校の先生から勧められたので、その説明会みたいなところに先生と一緒に行った。
大体の話を聞いたあと、やっぱり仕事しながら芸人はしんどそうと思って説明会の休み時間に先生に「先生、やっぱり俺ここいいや、帰りたい」とわがままを言って帰った。
先生は「なんで嫌になったん?」と聞いてきたので、ホンマはしんどそうというのが理由だったが、「夢追うのに保険かけたらあかんなって思って」とむちゃくちゃ嘘をついたら先生は「じゃあしゃあないね、先生村田君応援するわ!」と言ってジュースも買ってくれた。
むちゃくちゃ良い先生だった。
俺は「先生ありがとう、この味忘れへんわ」と言った。
そして高校を卒業して大阪でフリーとして1年間活動して東京に来て、もう10年。
味どころかなんのジュースやったかも忘れてしまった。
あとその先生の名前も忘れてしまった。
そんなに経ってしまった。
30歳になる頃にはnoteを書く暇もないように祈る。
29歳でこんなにお金無いの嫌すぎる。
金で窒息させてくれ。