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我が目指すところとは何ぞなん??

回転寿司でいちばん美味しいのは茶碗蒸しだよね。どーも、でぃーです。

何か始めたい!そう思い立った時に、重要なのが自分が何を求めているか、に尽きると思うのです。

なぜなら、その「何か」が自分が「本当にやりたいこと」に直結するような経験になるかがわからないからですね。とはいえ、直感的に、〇〇をしたい、と考えたのなら、本当にやりたいこと、からは大きくはブレていないだろう。

例えば、彼女欲しい!と漠然と思っている時、果たして、それが叶った際に、満足するのだろうかと思う。

実は、彼女が欲しい!は、本当にやりたいこと、を何し遂げるための一手段に過ぎず、本当にやりたいことではないのだと思うのです。

もし、この人が、本当にやりたいことを深掘りしまくった結果、「性欲を満たしたい!」が実のところのやりたいこと(目的)だったとしよう。

するとどうか。彼女を手にした結果、この目的は叶っていそうな気がするけど、ちょっと微妙です。なぜなら、彼女が性欲強いかは別問題だから。

ここで言いたいのは、〇〇をやりたい!を考える前に、「本当にやりたいこと(目的)」を深掘りしたがええのやないの?ってことです。

深掘りすることで、「本当にやりたいこと」を実現するために必要な手段は、もっと他にあることに気づけるのです。

上の例でいうなら、性欲を満たしたいが根元にあれば、それを叶える手段は、非効率な彼女をつくるではなく、

・風俗に行く
・クラブに行く
・セフレをつくる
・出会い系をする

があることに気づきます。

では、なぜ「本当にやりたいこと」ではないちょっとお門違いな手段が直感的に思い起こされるのか??

きっとそれは、本当にやりたいことは、人間の根源である、「煩悩」に基づいているからだと思うのです。ここから、本能的に目を背けてしまうわけです。

性欲を満たしたい、見栄を張りたい、自分を大きく見せたい、だの世間体から「悪」とされそうなものが、基本的には「本当にやりたいこと」である可能性が高いからです。根源なんだから、考えてみれば当たり前。

直感的に考える何かの手段は、実は、自分では気づいて起きながら、世間を考え、目を背けた結果として顕在化した「ちょっと目的から逸れた方法論」になりがちなのです。

簡単に言うと、企業したい!と思った人が、目的を深掘りした結果、見栄を張りたい、ならば、見栄を張る手段なんて、いくらでもあるって話です。

自分はどうなんかい??

実のところ、僕も深掘りしても求めているものは、中々出てこないのです。

でも、やっぱり考えてみると、金がほしい!になります。でも、きっとこれは何かを達成するための手段に過ぎないはずなんですね。

なぜ金が欲しいか?

そう深掘りしていくと、お金はあらゆることを可能にしますね。彼氏彼女も買えるかもしれない、心の安心を買えるかもしれない、親孝行だってできるわけです。

じゃあ、なぜそれをしたい?

「死」を克服したい。そう思い立ったのです。

例えば、自分の子供ができて、成人すると、次の世代にバトンが渡って、あーこれで自分の社会の役に立ったから、死んでも良いかなぁーーなんて思う人もいると思います(知らんけど)。

この感覚に似ていると思うわけです。

つまり、僕は「死」を克服するために、お金を得て、色々な体験をすることで、人生に充足感が得られ、後悔なしに最後を迎えることができるんじゃないか、そんなふうに考えたわけです。

ひとまず、まだよくわかぬ「本当にやりたいこと(目的)」は、変わりゆくものでしょうし、日が経つと違う考えになっているかもしれませんが、今はこう思うのですね!

ということは、今もっとも着手すべき手段は、

・手っ取り早く稼げる副業をする
・今の仕事やめて、稼げる仕事する

とかになるのか??なんか、つまらん感じするな。

じゃあね。

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