5日目
「鍵村さん、少しいい?」
声を掛けられたのは将棋会館から出ようとした時だった。
その場にいたのは君野ゆかり女流六段。すでに引退しているが、初めて女流棋士となった偉大な大棋士だ。ちなみに夏芽の師匠の奥様にあたる人だ。
彼女は浅黄色の着物を上品に着こなし、いつものように微笑みを浮かべている。
騙されてはいけない。勝負の世界では穏やかな人物の方がよほど恐ろしいのだ。
「構いませんが、何の御用でしょうか?」
「いえ、少しおしゃべりをしたくて」
「雑談ならご遠慮します。失礼します」
頭を下げて、将棋会館から出た。うん。いい天気だ。
「待ちなさい。鍵村さん」
「雑談なんでしょう? わたしは忙しいんですけど」
「雑談じゃないわよ。私は貴女が心配だったのーー。あれからまだ5日しか経ってないじゃない」
「5日で復活して、星橋六段に勝ったですから、心配される所以はありませんが?」
「あの夜、貴女のお母様から連絡があったの。ジョギングから帰らないって」
「ご心配をおかけして、大変申し訳ございませんでした。以後そのようなことがないように配慮いたします」
夏芽は頭を下げた。
「ですが、あの夜のことについては黙秘します」
「聞き出したいわけじゃないの。ただ、心配で」
「心配には及びません」
その時、夏芽のスマホが鳴った。鞄に視線をやると君野女流から仕草でスマホをチェックしてもよいと伝えられた。
スマホを取り出す。LINEが表示される。
『勝利おめでとう!!!凄い切れ味の攻めだった!!!』
顔が綻ぶ。
「…………そんな顔できるのね」
「どんな顔ですか?」
「いつか紹介してね」
「いや、まだ、そんな関係ではーー」
「恋人ではないの?」
「…………黙秘します」
君野女流の表情がとても微笑ましいものを見たようにゆるんでいる。
屈辱的だ。
「主人は将棋は独りの方が強いって言ってるけど、あの人自身は私と結婚してから棋戦優勝してるし、私は誰かと一緒の方が強くなれると思うわ」
「それをもっと早くに言って欲しかったです」
「ううん。それじゃ駄目なの。独りで強くなってからじゃないと、誰かに甘えてしまう。共依存じゃ駄目なの。一人でも幸せになれる人同士でないと駄目なの」
禅問答のようだが、わからない話ではない。
「ーーーー遠からず、ご挨拶に参ります。四段になって」
そう告げて頭を下げて、夏芽は颯爽と歩き出した。
頭の中は彼になんと返信しようかと真剣にシミュレーションしていた。
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