2日目②

「ただいま」

と、声を上げてから自室のドアを開けるのは越してきたから初めてだ。

鍵がかかっていたことから、彼女はまだ室内にいるのだろうと予想がついた。彼女は鍵を持っていないため、外出時に施錠できないからだ。

返事はない。

1LDKの寝室のドアは閉まっている。

意を決してノックした。

「夏芽さん?いる?」

ガタン!ドン!と、ベッドから何かが落ちる派手な音。

そして。

「い、います!」

と、声がした。明らかに寝起きの声だった。

とっくに帰ったと思っていたので、かなり驚いた。

・・・

「助けて頂いてどうもありがとうございます」

「あ、いえ。その、ありがとうございました」

二人で何故か部屋の中央で正座をする。彼女の服はまだベランダで干されているので、彼女は俺のシャツとジーンズだ。シャツがダボダボだ。

ーー彼シャツ、萌えるわぁ。

という想いは口には出さない。

自分の部屋は独身男性の部屋にしては片付いている。最低限の棋書とリハビリの本以外はほとんど何もない。

夏芽が恐る恐るといった体で質問してきた。

「記憶が途切れ途切れなんだけど、その首筋の絆創膏は、わたしが……」

左の首筋を触る。なるべく明るい笑顔を浮かべた。

「噛まれるくらい大したことないよ」

「うぐお」

彼女は喉の奥から絞るようにうめいた。眉目秀麗なだけになかなか趣きがあった。

「……記憶が確かなら、背中を引っ掻いたりーー」

「あはは」

「最後はそのーーおしっーー」

「まぁ、トイレに行くタイミングもなかったし……」

「じゃあ、その後始末も……」

「そりゃ自宅だし」

小さく小さく折り畳まれていく彼女を見るのは正直面白かったが、いじめたいわけではない。

彼女は土下座をした。綺麗な姿勢だった。

「本当に申し訳ありませんでした……」

「いや、こっちもやることやったし。気にしないで」

「ちなみに、その、ゴ……避妊はーー」

「着けたよ、そりゃ」

大学生の時に買ってそのまま数年間放置されていたものだが、無事に使用できた。

「良かった……」

彼女は心底からほっとしたように息を吐いた。

「ったく、拾ったのが俺だからよかったものの、もうちょい自分の身体を大事にしな」

「身体を大事になんて、無理ですよ」

彼女はにこりと笑った。一瞬で、空気が変わる。すべてに距離を取るような透明で冷徹な笑顔。

氷壁流と呼ばれた史上最強の女流棋士がそこにいた。

「わたしの身体はわたしが将棋を強くなるための道具でしかないですもん」

ゾッとした。

これが昨日、肌を重ねた女性とは思えなかった。

「夏芽さん。苗字を教えてくれる?」

「鍵村夏芽です。大変ありがとうございました。そろそろ失礼させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

彼女は笑顔を貼り付けたままだ。

「女流棋士の?」

「………………さぁ、存じ上げませんが」

「女流四冠で奨励会三段で昨日次点を獲得した鍵村夏芽さん?振り飛車党の」

「居飛車党です!あと、女流五冠です!」

あっさりと、彼女は身バレした。

「チョロいなー。つか、身分隠したいなら偽名使うなら将棋の話出さなきゃいいのに」

「そのような姑息な真似をしてまで保身するつもりなどありません!」

「俺が週刊誌に話をしたりしたら、金もらえたりするのかな?」

「さあ?試してみたらいかがですか?」

鼻で笑い、肩をすくめた。

「やらねーよ。くだらね。とりあえず、スマホはあそこ。悪いけど電源は切っておいた。うるさかったし、俺が電話取ったらかえって心配させるだろうし」

「あ、はい」

茶をすする。

(さて、どーしよ……)

まぁ、見知らぬ男の部屋に二人きりだ。向こうもあまり長居はしたくないだろう。昼食くらいなら用意できるが、それも恐縮するだろうし。

「帰るなら、送るけど? ここがどこか知らないだろうし」

「いえあのーー」

彼女は躊躇いを振り切るように。

「何かお礼をさせて下さい!」

「いや、充分な一晩を送ったからいいよ」

「駄目です! わたしは昨夜、その、あなたに救ってもらいました。いきなり、その……吐いたりしたのに、そのまま放置されても、救急に運ばれても、仕方ない状態でした……」

「なのに、その、あなたはーー」

「飯干修平。修平でいいよ」

「修平さんは部屋まで運んでくれて、綺麗にして、洗濯して、ーーその、とても素敵な体験をさせてくださってーー午後有給まで取って、買い物までして、わたしが帰りやすいように家を空けてくれました。泥棒されるかもしれないのにーー」

「改めて聞くと、まるで俺はいい人みたいだな」

「修平さんは本当にいい人です!」

「おお、ど、どうも」

「だから、お礼をしたいんです!」

そして彼女は目を閉じて深呼吸をした。彼女の対局前のルーティンだ。

目を開けた時には彼女の周囲は氷壁を纏っているようだった。

「わたしは女流棋士です。心に恥や傷、借りを抱えたままでは勝てません。だから、わたしにお礼をさせて下さい」

「大変利己的でよろしい」

少し迷って。

「同い年だから、敬語はなしで」

「わかり、ーーわかった。で、何がいい?」

「んー、俺が腹減ったし昼飯食いたいから、それについてきて。ちなみに、何か食べたいもんある?」

「焼肉!」

彼女はハッキリと言い切った。


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