指す将順位戦と2人の青年

(次は、えー、末次さんか)
病院の廊下で君嶋真介は手帳を開いている。今日の予定がビッシリ書き込んである黒い手帳。前の患者にチェックを入れる。次の名前『スエツグ』
(お孫さんは来てるかな?)

眼鏡をかけて、髪を生真面目に撫で付けた白衣の青年。リハビリスタッフで言語聴覚士だ。20年前にできた「食べる、聞く、しゃべる」のリハビリ専門職。

看護師と挨拶して次の患者にリハビリ介入して問題ないかを確認してから、病室に入ると同時に
「あ、君嶋さん!昨日の羽生藤井戦観ました?」
明るい青年が満面の笑みを浮かべて問いかけてくる。大きな声に同室の患者が青年に目を向けた。快活な青年だ。青年が座っていた椅子には紫の詰将棋ハンドブックが開いた面を下にして置いてある。
「勿論観戦しましたよ。熱かったですね」
「ですよねー!7年ぶりの対局!繰り出される後手藤井システム!受けて立つ居飛車穴熊!ギリギリの終盤戦!いやぁ、格好良かった…」
「ですね。はい、末次さん、血圧から測りますね」
病床の老婆に声を掛ける。老婆は頷いた。右腕は透析用のシャント肢であるため、左腕で血圧を測定する。
「心底から藤井ファンでよかった、全四間飛車党は並べないとダメなやつです!俺は今夜にでも並べます。一人の四間飛車党として!」
「藤井九段のファンって、ファンというより信者って感じですよね」
「やっぱりそう見えます?」
「そうとしか見えませんよ。132/62 HR63。うん、血圧正常ですね。では、車椅子に乗りましょうか。今日はそれから、訓練室に行って、声出して、歌って、ご飯食べましょうか」
末次洋子(75)透析歴22年。昨年末に自宅で倒れているところを発見した孫からの緊急要請にてHCUに緊急入院。右上下肢麻痺、嚥下障害、失語症を来し、透析継続及びリハビリテーションのため、当院に転院。
摂食嚥下機能療法では現在、発声発語訓練を中心に介入している。

言語聴覚療法では自発話の訓練だ。言語の理解は文レベルで可能だが、発話は復唱にて挨拶レベルしか残存していない。


「ばあちゃん、今日は調子いいみたいです。俺の顔見て笑うんです」
元気なこの青年は彼女の孫。20代前半。明るい髪色をしており、人なつこい笑顔が似合う。個人的には佐々木勇気七段に似てると思っている。

末次さんの孫だが、名前は覚えていない。緊急連絡先には彼の父と叔父の名前があり、彼の名前はない。
なので、彼は俺にとって『末次さんのお孫さん』なのだ。


「あの、君嶋さん。ばあちゃんと将棋って指せますか?」
「将棋盤はリハ室にありますよ。失語症っていうのはシンボルの障害です。将棋はシンボルを使うゲームなので有効かもしれませんね」
「俺、ばあちゃんっ子でばあちゃんから将棋教わったんです」
「そうですか」
「ばあちゃん、俺と指すのが好きで、出来るなら指してやりたいなって…」
「用意しますよ。今日は何時までいます?」
「ありがとうございます!水曜日は休みなんで、いつまでも待ちますよ」
「少し、スケジュール確認させてください」


自分の手帳を見る。本日の予定を確認する。

本日の予定、その最後に『21:30〜指す将順位戦 8回戦』と、書いてあった。

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