78日目
勝った時、負けた時、どう対処するのかというのは棋士にとって永遠の課題の一つだ。
浮かれすぎず、落ち込み過ぎずを掲げる者、思い切り酒や遊興に溺れる者、ひたすらに鍛錬を重ねる者。
鍵村夏芽のルーティンは決まっている。17時までの対局終了であれば可能な限り徒歩で、それ以降は交通機関で帰宅し、食事を摂り、ランニングする。
勝ち負けで一喜一憂する必要はないが、タイトル戦などの時には後援会の皆様が食事を用意してくださっていたりと、やはり特別な対応になることが多い。
同じことを続けることに対して痛痒を感じないというのは鍵村夏芽の特徴の一つだ。毎日同じ食事メニューでも平気だし、起床時間も小学生の頃からずっと変わらない。
彼と同棲を始めるまでは。
彼は雨男だが、わたしは天候と生活に何の関連性も感じたことはない。
今日、わたしは初めてタイトルを失った。5年間保持していた女流麒麟位を失った。0-3で失ったので、多分、角一枚弱くなっているだろう。
これでわたしは女流四冠に後退だ。
最寄り駅に着いた18時23分、彼にLINEする。駅名を書く。気分が良い時にはハートマークや音符を付けるが、今はそんな気分ではない。
ビニール傘の下で土砂降りの中を歩く。棋譜が渦巻く。ああしていれば、こうしていればと無駄な思考が止まらない。
近所の公園に差し掛かる。家まであと10分ほどだ。
幼い頃にも遊んだ公園に何となく、足を踏み入れる。
わかっている。失冠は仕方ない。戴冠とセットだし、今ではなくても、不老不死ではない以上いつか失うものだ。
いや、目を背けるな。
公園のブランコの前で立ちすくむ。風が強く吹いて、ビニール傘がラッパになった。笑えてきたので、そのまま手を離すと傘はガリガリと地面を削りながらすべり台の方へと飛んでいった。
雨に濡れる。寒い。ひとごとのように感じる。
彼に、温めてもらいたい。
ーー弱くなってしまった。
将棋が強くなりたいというのに、独りでなくなってしまった。自分以外の誰かに依存してしまった。
だから、弱くなった。
だから、失冠した。
では、どうすれば良いか?
答えはわかっている。彼と出会って3ヶ月。その間の対局数は14局。3勝11敗。奨励会でも大きく負け越し、女流タイトル戦は一つを今日失い、別の一つも黒星が先行している。
弱くなっているのだ。
勝率が悪ければ、現在の生活を見直さなければならない。
彼との暮らしを。彼との生活を。彼との未来を。
雨の中、傘も差さずにただ突っ立ってる。
将棋に当てる時間は激減した。以前は食事とジョギングと3時間しかない睡眠時間、それ以外のすべてを将棋に注いでいた。下手をすれば、食事時間も将棋観戦をしていた。
それが今では、2人で喋りながら料理をしたり、家電量販店に手を繋いで家具を見に行ったり、旅行に行く計画を立てたりと、気が緩んでいることこの上ない。
睡眠時間も増えたし、彼の料理は母よりも上手く、食事もよく食べるようになった。夜の生活は必要以上に充実しているし、それによる睡眠導入は非常に成功率が高い。
大変屈辱的なことに、それを幸せと感じてしまっている。
わたしはまだ、修行中だというのに、すでに幸せに浸かってしまった。幸せになることが悪いわけではない。
ただ、それによって、弱くなってしまった。
雨の中、冷えていく全身。指先が痛み始める。
道は二つだ。
一つは今の生活を続ける。それで弱くなって、負ける。夢を叶えられず、恐らくそれも彼によって癒される。
夢を叶えられないのは仕方ないが、その為にベストを尽くさないのは耐えられない。
もう一つは家に戻る。今までのように将棋のためにすべてを捧げる生活に戻る。彼との生活を一時の幻想にして、自分の身体に鍬を打つような生活に戻る。
それに耐えられるだろうか?
今はまだ眠れないだけで済んでいる心身への影響はどこまで悪化するだろうか?
また、毎日対局前にも後にも嘔吐するようになるのだろうか?
ビックリするほど記憶が飛ぶこともまた起こるだろう。
あの時のように酒を飲んで夜中に街中で倒れるかもしれない。次は命の保証はないだろう。
なんとなくだが、手首を切るくらいには悪化するだろう。
もしも、それで、四段になれたとして、夢を叶えたとして。
そんな人生にどんな意味があるのだろうか?
「それでも、もう、やるしかない」
呟く。
それとも、もう疲れたし、全部投げ出そうか。
このままここで朝まで立っていれば、死ねるだろうか? 6月の雨で死ぬには時間がかかりそうだ。
どれくらい経ったか。
雨が止んだ。というか、視界に傘が写った。
正直な話、わたしはそれを待ち望んでいたのだろう。
「しゅう」
彼が、全身ずぶ濡れの飯干修平がビニール傘を片手にそこにいた。ゼェゼェと息を切らし、膝に手を当てている。
息を整えて。
「こ!の!ボケが!一体、何時間突っ立ってたんだ!アホか!」
叫ばれた。
わたしはただビックリした。
「え、そのーー」
「いいから、帰るぞ!何時間探したとーー」
「わたしと別れてください」
「はいはい。風呂入って身体温めて飯食ってからな」
「わたしは真剣にーー」
彼は頭を下げた。驚く間も無く、視界が急激に回転する。
「よっと」
彼はわたしを肩に担いだのだ。左手で傘を差して、右肩にわたしを担いでいる。
「ちょっーー」
「うわ、重た」
「うるさい!ていうか、恥ずかしい!」
「じゃあ、歩くか?」
「歩く!歩くから!」
「逃げないか?」
「……」
「はいこのまま、帰るぞ。ったく」
途中で肩が当たっているお腹が痛くなってきたので、下ろしてもらった。
逃げられないようにとすべての指を絡ませる手の繋ぎ方をされた。文字通り、連行される。
「離して! わたしは独りに戻らなきゃいけないの!」
「へぇ」
「わたしは独りで生きてくの!」
「はいはい。そーですね」
「構わないでよ!」
「甘えるなよ。何かを棄てれば何かを得られるわけじゃねーよ」
「わたしの手は二本で頭は一つしかないの!幸せになると将棋が弱くなるの!」
「因果関係が証明されてないこと言うな」
「されてるの!」
「証明されてねぇよ!思い込みで怖いからって幸福から逃げるな!」
彼はわたしに顔を近づけた。その顔には怒りが溢れていた。
「全部!全部だ!全部望めよ!幸福も、将棋も!家庭が不幸な奴が将棋強いわけねーし、将棋は人を不幸にするためにあるんじゃねーよ!棄てて逃げた先にあるのは後悔だけだ!」
大きく息を吸い込んで。
「俺は諦めねぇぞ!君は将棋も強くなれるし、幸せにもなれる!君は世界初の女性プロ棋士になるし、ともに幸せな家庭を築くぞ!欲張れよ!そのためなら、俺は何でもやってやる!」
言いたいだけ言って、彼はまた足を進めた。引っ張られながら歩みを進める。
「……なんで、そんなに優しいのーー」
「君に惚れてるからだよ」
彼の手は暖かくて、力は強くて。
わたしはボロボロと泣いていた。
彼はそれから何も言わずに、家路を進んだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?