78日目②

いつ頃から、その想いがあったのか。奨励会初段、二段、三段と経過とともに大きくなり、3期目の三段リーグで四段に届かなかったあの夜には明確に自分の中にその想いは確実に存在していた。

それは彼と同棲を初めて、3日目の夜だった。

彼は腹を立てていた。

わたしの多忙さに対して。

三段リーグ在籍しながら、女流五冠のタイトル戦をこなさねばならない。対策、トレーニング、受け答えやメイクも大事だし、スポンサーや地元の愛好家との交流も必要だ。

「俺は君の仕事に対して口を出したくないんだけど、それでもこれは明らかに忙しすぎだろう」

「将棋指しは個人事業主だからね」

とだけ答えた。

「個人事業主なら、選択ができて然るべきだ。どちらかを選べないのか?」

「どちらかって……」

「女流棋士と三段リーグとを」

「タイトルホルダーがやすやすと女流棋士を引退も休職もできないよ」

彼はそうか、と答えながら、野菜炒めにもやしを突っ込んだ。

・・・

雨の中を歩いて帰り、風呂と食事を終えると、夜10時を過ぎていた。

「話は明日でもいいけど?」

「ううん。今日話したい」

わかった、と彼は頷いた。テーブルの隣に座る。彼はノートを広げた。

雨で冷えた身体は彼が事前に沸かしていた風呂と温かいスープで解きほぐされていた。

さきほどのわたしの悩みは一通話しおえている。

「一つ、確認させて」

「なに?」

「君は俺と暮らすことは、その、楽しい? 満足してる? 将棋を抜きにしてさ」

わたしは苦虫を噛み潰す。

「残酷なことに、人生で一番幸せだわ」

「そんな嫌そうな顔しなくても……」

「わたしの人生大切なものランキング不動の一位将棋に猛スピードであなたが追いついてきたわ」

「そうなんだ……」

「将棋とあなたの命を天秤に乗せられたら、わたしは即答できない」

「夏芽」

「なに?」

「好き」

抱き寄せられた。

「んーーー!ぷはっ!もうっ!」

「さて、今回のテーマは『将棋の棋力と人間関係について〜どうにかして同棲は続けたい編〜』だ」

いつもながら、切り替えが早すぎてついていけない。

「それ、ノートにまで書くんだ」

「大事なことだろ?」

「大事なことだけどさー」

「可視化は大事。頭がいい人は情報共有が下手な人が多い。チームプレーを重視するなら、他人の理解まで操作しないと意味ない」

「そんなものなの?」

「棋士にはいらない能力かもしれないけどね。他人にとって何がわからないかわからないレベルの天才はただの社会不適合者だ。世界を変える真の天才は他者も支配するか、自分を理解できる仲介他者を駆使する。さて、問題点『交際が始まってから、将棋の負け比率が高くなった』でいいか?」

「うん」

「まず前提整理。俺と付き合う前と後で、それ以外の変化はあった?」

「三段リーグでは一気に次点になったから研究されてる感は強くなった」

「なるほど。でも、君って目立つから研究はされてるんじゃないのか?」

「まぁ、三段リーグの女は今わたしだけだし、女流四冠だからねー。大体角換わりか相掛かりしかやらないしねー。研究と腕力でどうにかしてたんだけど」

「研究時間は減った?」

「減った。多分、半分くらい」

「……ヤリすぎ?」

「言い方!わたし、不眠症だったんだけど、貴方と暮らし始めてから、眠れるようになったの!普段は寝られないから詰将棋解いたり、ずっと将棋指したりしてたの!」

「なるほど。睡眠時間を削ってたのが削らなくなったのか」

彼はふむ、と考えてから。

「それは長期的に見たら、かなりプラスに思えるな」

「そうね、あの頃は不眠症だったし酒飲んでなくてもしょっちゅう戻してたし、多分精神科に行ったら対局止められてたと思う」

「今は?」

「おかげさまで、めっちゃ眠れているわ」

「頑張っている甲斐があるというものだ」

「あれって頑張るもんなの?」

「頑張らなければ挿れて2分で即発射だ」

「それは、いやね。って、そうじゃなくて!」

「君が思う君が他のプレイヤーに比して不利なところは何かある?」

「対局数かな」

「そうか。女流タイトルホルダー+三段リーグの二刀流だもんな」

「去年のわたしの公式戦の対局数は30局。奨励会の対局が1年間で36局。合わせて66局」

「多いのか少ないのか、わからん」

「ちなみに去年の最多対局賞の神四冠は65局」

「君の対局多すぎじゃね!」

「多いのよ! まぁ、でも、強い棋士の宿命だしね」

「………………実はこないだから、ずっと疑問だったんだ。なぁ、君は女流棋士を辞められないのか?」

「辞められないわよ。タイトルホルダーがタイトル持ったまま、引退なんてどんだけ迷惑かけると思ってるのよ」

「聞き方が悪かった……。君は女流棋士でいたいのか? それとも、棋士を目指したいのか?」

「わたしはプロ棋士になりたい。わたしはなれるだけの棋力があるし、今、奨励会有段者の女性はわたしだけ。わたしは他の誰でもないわたしがわたしの力で証明したい」

彼女の目の奥に燃えている炎に俺は強く惹かれた。

「男でも女でも将棋で強くなれるってことを」

「わかった。それじゃあ、女流棋士を引退しよう」

「だからーー」

「説得しよう。関係者を。まずは師匠に相談しに行こう。俺も一緒に行くよ」

「でも、そんなの……」

「人間の能力には限界がある。体力も精神力も限界がある。そして、その限界を超えた場合、大きな代償を支払う必要がある」

「わたしはまだ限界まで頑張ってない……」

口を尖らせる彼女に。

「次に君が倒れた時、俺がそばにいるとは限らない。限界な人間は自分が限界か判断ができない。何故なら冷静な自己評価を下すだけのエネルギーを業務遂行に費やしているから。逆に冷静な自己評価ができる状態は業務遂行に全身全霊を傾けていない。つまり、限界な人間が限界を判断するのは理論上不可能だ」

「そう言われてもーー」

「人は死ぬ。簡単に死ぬ。俺の親父も過労死したよ」

「…………そうなの」

「うん。大学の頃にね。親父がしんどそうな時に俺は『頑張れ』って言っちゃったんだ。後悔してる。命を懸けるに値する仕事はあるかもしれないけど、身内に死なれるのはしんどいもんだよ」

「…………」

「だから、君にも死なれると、俺は、かなり、だいぶ、きつい」

「…………」

「そろそろ、寝ようか」

「うん」

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