88日目
神清十郎四冠といえば、将棋界のウルトラスーパースターであり、第一人者であり、かつて七冠制覇を成し遂げた大人物だ。
彼が彼の兄弟子である木村七段と奥様である君野女流六段、そして、俺飯干修平と同じ病室にいる。
神四冠は持ってきたフルーツ詰め合わせを病室に置いた。昨日やっとHCUから出ることができ、一般病室に移動できたのだ。そのため、面会も制限が解かれ、家族ではない人でも面会できるようになった。
俺がここにいるのは偶然ではない。奥様とはLINEを交換しており、今日は連絡をもらっていたのだ。
神四冠と話すために。
「木村さんは話せないのですか?」
「ブローカー野を損傷しておりますので、発話は難しいです」
「ブローカー野は確か、発話に必要な脳の部位ですよね?」
なんで知ってるの? と、神四冠の博識に気圧される。が、引くことはない。
「その通りです。ブローカー野含む左脳を損傷しており、発話や書字も困難です。ただし、それ以外の意思表示ならばある程度可能ですし、こちらの言葉の聞き取りもわかってきました」
「なるほど。ウェルニッケ野は無事ということですか?」
まぁ、ブローカー知ってるなら、ウェルニッケも知ってるわな。
「無事と言うと語弊があります。損傷の度合いが少ないというだけですし、現在でも目的語が3つになる文章では混乱が生じます」
「なるほど。では、簡単な言葉なら理解はできますか?」
「はい。左耳の方からゆっくりはっきりとお伝えください」
「左ですか?」
「はい。左脳を損傷しておりますので、右からの声掛けでは無視が生じやすいです。神経は交差しておりますので。右脳の損傷とは異なるので軽度と評価しているのですが、今でも気づきにくいことがあります」
神四冠は頷いてから、木村七段の左から声をかけた。
「神です。お見舞いに来ました。何か、私に手伝えることはありますか?」
「トゥータン!タンタンタンタタン!」
木村七段が叫ぶ。
「残語と呼ばれる全失語の症状の一つです」
「なるほど」
木村七段は左手を忙しなく動かした。
俺はサイドテーブルの上のノートを開いた。
見開きには写真が4枚貼られている。『妻』『弟子』『将棋の王将』『自宅』
これは試行錯誤を繰り返して修平と木村七段が作成したコミュニケーションノートだ。木村七段は『言語』を発話や書字できない。しかし、『写真』を指差すことならばできる。
そして、彼にとって価値があるものは4枚の写真が最も頻度が高い。
木村七段は『弟子』を指差した。鍵村夏芽女流四冠だ。
「タン……トントタン……」
俺は咳払いをしてから。
「わたしは奥様とも何度かお話をさせて頂いております。鍵村女流四冠の成績低迷と女流棋士引退の希望について木村七段はとても気にしていたと伺っています」
「え!そうなんですか!」
神四冠が子供のように驚いた表情を浮かべた。対局以外では感情を制御しないと書いてあったが、本当にそのようだ。
「女流棋士と三段リーグの両立はやはりスケジュール的に見ても難しい。ですが、女流棋士を引退するのもスポンサーへの配慮もあり、とてもやりにくいと苦悩していたようです」
「そうですか」
「はい。わたし達に相談をして、その日から主人はかなり悩んでおりました。会長の加藤九段に相談する予定でしたが、倒れてしまってーー」
「そうですか。うーん」
ちらりと神四冠がこちらを見やる。部外者である俺が何故ここにいるのか?と問うているように見えた。
そういえば、リハビリスタッフとしてしか自己紹介をしていなかった。
「私は鍵村夏芽さんと婚約させて頂いております。飯干修平と申します」
「あ、それはおめでとうございます。ご結婚はいつ頃?」
「四段昇段すれば、明日にでも」
「はぁ、なるほど」
「まぁ、四段になれなくても結婚しますけどね」
神四冠と奥様が吹き出した。何か変なこと言ったか?
「いい人と出会えたようで」
「ですね」
なんか、恥ずかしいぞ。
咳払いをした。
空気を変えるために。
「夏芽さんは現在心身共に限界を迎えています。彼女のストイックさが悪い方に出てしまっています」
奥様が静かに頷く。俺は話を続けた。
「彼女は女流棋士としてトップに君臨することよりも、プロ棋士になりたいという想いが強いようです。しかし、簡単にタイトルホルダーがタイトルを手放せるものでもないと語っていました」
奥様と神四冠が頷く。2人とも二桁回数タイトルを獲得しており、この場でタイトルとは無縁なのは俺と病床の木村七段だけだ。
「しがらみに彼女は押し潰されようとしています。泣いて吐いて苦しみもがいています。このままでは、彼女は潰れます。同棲している私が言うんですから、説得力はあると思います」
もう一度咳払いをして。
「女流棋士の引退、もし可能ならば休場と三段リーグの継続をしたいと彼女は考えています。お力添えをお願いできませんか?」
俺は頭を下げた。深く。
神四冠は「頭を上げてください」と述べてから、ふーむ、と唸った。
「わたしにできることはそう多くないですが、話を通すくらいなら……」
それでは足りない。彼女は交渉が強い人間ではない。しかも、今回は無理を通す話をせねばならないのだ。
体調不良でタイトルを返上するなら簡単だろう。
無理をして、女流棋士と三段リーグを並行して進めることもできるだろう。
女流棋士を引退して、三段リーグを優先するという行為は女流棋界からすれば、また彼女を旗印にしたいスポンサーからすれば利益を損なう行為であり、棋戦を軽視するプライドに障る行為だ。
鍵村夏芽は優秀な将棋指しかもしれないが、ただの世間知らずなーー俺如きにたぶらかされるようなーー女に過ぎない。
彼女にそんな条件を貫き通す交渉はできない。
いや、違う。神四冠以外にそんな交渉ができる人間はいない。
俺にできることは頼むことだけだ。
「お願いします!」
俺は土下座した。病院の床は綺麗ではない。例えどれほど清掃しても、血液や薬剤がこぼれうる病院の床は綺麗にはなりえない。
そんなことは病院勤務者の常識だ。
床に額を擦り付ける。
「お願いします!どうか、どうか、お力添えを!」
叫んだ。個室でよかった。個室でなくても、同じことをしたが。
「彼女は女流棋士を辞める覚悟をしています! 三段リーグに全てを掛ける覚悟もしています! それをするには誰もやったことがないことをやるしかないんです! 俺は将棋界にいる人間じゃですが、そんな俺でも知っています! 将棋界で一番影響力があるのは、神四冠! あなたです! 贅沢を言うつもりはありません! 八百長をしたいわけでもないんです! ただ、他の三段リーグ在籍者と同じ環境で戦う機会が欲しいのです!」
「ですから、顔を上げてください!」
「彼女に平等な場所で戦う権利をください!」
言いたいことは叫び切った。
「トゥータタワタン!」
木村七段の声。恐らく、この場で一番声を出したいのは彼だろう。
奥様も頭を下げた。土下座まではしなかったが。
「わたしからもお願いします。神四冠。わたしが産み、夏芽さんがここまで育てて下さった女流棋界は彼女がいなくなれば終わるほど弱くありませんわ。あの子に、私達の娘が、真面目で努力家なあの子が背負っている荷物を下ろさせてください」
「ーーお二人とも、頭を上げてください」
静かな声に思わず服従して立ち上がる。それだけその声には力があった。
彼が眼鏡の位置を調整する。その姿に背筋が泡立った。怖い。睨み付ける視線に歯が鳴りそうになる。
格が違う。
それでも、退くことはできない。
「一つ質問します。もし、女流棋士を引退して、三段リーグにも失敗したら?」
「俺が養います」
一秒も迷わずに即答した。
その時、奥様のスマホが鳴った。「夏芽さんです」
目線で許可を得てから奥様が電話に出る。二言三言交わして、通話を切る。
「取材が終わって、夏芽さんはあと10分ほどで到着するようです」
「では、この話は少し置いておきましょうか」
神四冠が告げて、俺は息を吐いた。自分がろくに息もできていなかったことにやっと気づいた。
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