34日目③
エビフライカレーはレトルト食品であり、美味しくも不味くもなかった。というか、よくわからなかった。
「ちなみに、長考って、あとどのくらいかかる?」
「わからないわ」
「先に風呂入ってきたら?」
答えられなかった。入浴するということは服を脱ぐということで、2人きりのラブホテルでそれは危険過ぎる。
沈黙していると修平が大きくため息をついた。時計を見る。1時間を越える大長考をしてしまっているので、彼にはかなりの負担だろう。
修平はわたしの座っているソファの隣に座った。膝が触れたのに、わたしがビクッとした。
そのまま、わたしの頭を抱きかかえた。暖かい。
「将棋じゃねーんだから、何を悩んでるか教えてくれ。このままだと、朝まで長考しそうだし」
……確かに。
彼から頭を抱きかかえてもらっているお陰で視界が暗い。
「ーーーーどうしたらいいか、わからないの」
「うん」
「将棋で強くなるなら、独りでいなきゃいけない」
「それだけ刻まれてるって、すげー強い呪いだな、それ」
「呪い……うん。そうかも。わたしが将棋始めて、まだ初段くらいの時からだから、小学校1年生の頃からかな、ずっとそう思ってたから」
「そか」
「だから、わたしは友達もいないし、恋人もいない。一生を独りで過ごすんだと思ってた。でも、あなたと会っちゃった」
「なんか、すまん」
「ふふふ。謝ることじゃないよ。なんて言うか、世界って色があるんだなって感じの1ヶ月だった」
「そりゃ、光栄だね」
「だけど、心の中に貴方がいるとそれだけでわたしは弱くなっちゃうの」
「そうなのか?」
「今まで将棋に費やしてた時間と労力の何割かを確実に貴方に割いてる」
「2人とも休みがかぶったら、たいがい一緒にいるしなぁ」
「休日以外も、ずっとよ……」
彼が首を傾げたのがわかったが、説明してやる義理はない。
LINEの返信やちょっとした言葉に自分がどれほど労力を割いて推考しているか。ありとあらゆる感情や出来事を君と共有したいと思っているか。どれだけわたしが彼と常にそばにいたいと思っているのか。
そんなのまるで、恋する乙女ではないか。
「将棋で強くなるなら、独りでいなきゃいけない。わたしが今、生きている理由は将棋が強くなるためなの。強くなって女の人で初めて四段になって、女性でも将棋をしていいんだって、強くなれるんだって、伝えたいの」
「うん。そんな君を尊敬してる」
「だから、将棋以外のことに注力することが凄く不真面目で駄目なこととしか思えないの」
一通り喋った。
彼はくくく、と喉の奥で笑った。それから、はははと堪えきれないように声に出して笑った。
まぁ、ムカついたよね。胸元を殴るよね。鍛えているから、結構な衝撃だったらしく「ぐえっ」って彼が声を上げた。
彼の胸から離れる。灯りが眩しい。
彼はにやにやと笑ってる。
「何よ、人が真面目に悩んでるのに」
「うん。そうだな、ほんっとに生真面目だなぁ。好きだわー、うん。ほんっとに俺、君が好きだわー」
「ーーなんで、ここでそう言うのよ」
「俺の考えを言ってもいい?」
「どうぞ」
「将棋の強弱と人間関係の相関関係なんていくら思考実験しても答えは出ない。多分、答えは『人とパートナーによって違う』になると思うよ」
「うん。まぁね」
「問題は『鍵村夏芽が飯干修平と一緒にいると将棋が弱くなるかどうか』だけど、これは個別性が高すぎるから、実験しないと答えは出ない。で、実験の手段はざっくり三つ」
彼は指を三本立てた。
「一つ目はわかりやすい。君がずっと握ってるその箱をゴミ箱に捨てる」
自分の眼が開かれる感触がした。捨てる?これを?彼がわたしのために用意してくれたプロポーズリングを?
「これはお勧めしない。第一に俺が悲しいし、以前と同じことを継続するだけだ。現在、君は四段に、そのーー」
「四段になれなかった。そうね。二つ目は?」
「付き合う。指輪を受け取る。君が婚約したくなったら石を一緒に買いに行こう。店員は王道だけどダイヤモンドがやはり一番いいと言っていた」
心がもぞもぞする。落ち着かない。
「これは結納ほどではないが、俺が君と添い遂げる意思表示になるから、様々な心理コストの削減になる。お互いにとって」
「……そうね」
「なので、将棋で強くなるなら、独りでいなきゃいけない。という問題に対して君と俺の結論が出ると思う。検証方法としては『将棋の勝率』で評価する。一定期間実施してみて、著しい棋力の低下があれば、その時再検討する」
「いいと思う」
「三つ目は保留。その箱だけ君が保管しておいて、付き合いたくなったら、指輪をはめればいい」
「ーーそれなら、3かな……」
「まぁ、この言い方ならそうなるわな」
「うん。それに、正直、ちょっと怖いしね」
? と彼が疑問符を浮かべる。
「いや、だって、この場で付き合うって言ったら、わたし襲われるでしょ?」
「あー、いや、それはあんまり関係ないかな。どっちみち、押し倒すし」
「へ?」
彼はわたしの身体を抱きしめて、ベッドへと押し倒した。
「ちょっ、ちょっと!なんでーー」
「借りがあったろ? あれを返してもらうわ」
「え、え!さっきまでめっちゃ紳士だったのにーー!!!」
「そーだな。あ、キスするぞ」
「やめ、んーーーー!!!っぷは!ちょっ!わたしのファーストキスがー!あ、2回目か覚えてなんーーーー」
「レモンの味した?」
「カレー味だ、っんんんーーーー!!!」
「舌絡めて」
「ちょっと待って! その、お風呂!シャワー浴びてから!今日わたし、めっちゃ羊とか触っーーあんっ!」
「首筋甘いなぁ」
「OK。わたしも女だ。覚悟決めた。でも、夜やるはずだった筋トレと詰将棋と対局相手の研究したいから3時間待っ、んぃっ、ぃゃんっ、あーーー!!!」
人生で初めて正気で聞く自分の甘い声に少なからずビックリした。
「夏芽」
「耳元で囁くなー!」
「夏芽、愛してるよ」
「…………。
…………………………。
…………………………………………………………。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
………………わたしもよ」
・・・
翌朝は雨が上がっていた。対局場へと自動車を進める。わたしは助手席で膨れっ面をしたまま、外を眺めていた。
「全然!休めなかった!」
「後半めっちゃノリノリだったしな」
「うるさい!」
「でも、寝てたじゃん。5時間くらい」
「あれは気を失ったって言うのよ」
「それほど感じてくれたなら、男冥利に尽きるねぇ」
「ーーこんのっ!あー、もう!スマホで棋譜チェックしてるから、ドラッグストアとコンビニがあったら、停めて!」
「ドラッグストア?」
「どっかの馬鹿が首筋に跡付けまくったから、隠さないといけないのよ」
「そうか。次からは服で隠れる場所にするわ」
「……。到着したら教えて」
「へいへい」
わたしは棋譜に集中し始めた。スマホを操作する時に左手の薬指に嵌めた指輪に陽光が反射して眩しかった。
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