39日目
「生活様式変更の提案があります」
と、夏芽が告げたのは俺の家の近くにあるファミリーレストランでだった。
平日の夜に呼び出されるのは初めてだ。修平は食べ終えた定食を片付けてもらってから、「ふむ」と相槌を打った。
「長い話になる?」
「なるわ。確実に」
「麦酒飲んで良い?」
「駄目よ」
「んじゃ、珈琲でも頼もうか」
珈琲が到着するまでの間、彼女はノートPCを起動し、何らかのレジュメに赤を入れていた。
届いたホットコーヒーに口をつける。
「生活様式の変更って何?」
「まずこちらの資料をご覧下さい」
と、レジュメを渡された。あ、これ、俺に渡すためのものだったんだ。赤が入ったまんまなんだけど。
「ふむ……。睡眠時間と棋力について?」
「ええ。ご存知かと思いますが、わたしは不眠症です」
「……そうなの?」
思い切り寝ているイメージしかない。うむ。
「思い切り寝てるイメージしかない」
「それについては後述します。これは10分間で9手詰を何問解いたかと、睡眠時間の相関グラフです」
「ふむ。相関係数0.6か」
睡眠時間が長いと詰将棋が沢山解けるかといえば、まぁ、そうだよね、関係ありそうだよね。というぐらいのグラフだ。
「2枚目の資料をご覧ください。これは睡眠時間と公式戦勝敗関係グラフです」
「これはまた、わかりやすい」
「公式戦の前日はほぼ眠れませんが、4時間以上眠れている時の勝率は8割です」
「ふむふむ。つまり、君の場合は睡眠時間の多寡が将棋に影響を及ぼす比率が高い」
「さすがね。では、次の資料を」
「集中の質とはまた広い概念だな」
「その日の夜、寝る前に自己採点で10段階に分けて採点をするわ。質の高い時間は質の低い時間の倍以上の価値がある。勉強時間の長さは確保出来ているから、問題は質になってくるわ」
「よく眠れている日はよく集中できる。まぁ、脳も臓器だからな」
「わたしの平均睡眠時間は約3時間。中途覚醒の頻度も高く、自分自身で非常に苦痛を感じているため、睡眠障害に分類できると思うの」
「医者には掛かったの?」
「一度掛かったけど、薬物療法はわたしには合わない。脳にもやがかかったみたいになるし、その時期ひどいスランプに陥った」
「厄介だな」
「寝具の調整をはじめとする、アロマやストレッチ、音楽、睡眠前に不安に感じることを書き出すなどのあらゆる手段を用いて最高の品質の
眠りを求めたが、正直、結果には結びついていないわ」
なるほど、と頷く。
「すげー気合入れて眠ろうとしてんな」
「次のページをご覧ください」
「よくまぁ、こんなのを書けるな。見てるこっちが恥ずかしいんだけど」
タイトルは『飯干修平と同衾した場合』
「うっさい、勝つためよ」
「4日間すべてで睡眠時間が5時間オーバーか」
「翌日の詰将棋速度および公式戦ーーまぁ、こっちは2局しかないけどーーでも2勝。高い集中を得られている。つまり……」
「つまり?」
彼女が言葉に詰まった。俯く。どうも、恥ずかしがってるのだと気づくまで数秒を要した。
「つまり、俺と一緒にいる方が将棋強い?」
「そう!そうなんだけど!だから!」
「一緒にいたい?」
「……まぁ、そうだけど、それよりも」
「しゅーくん、大好き」
「そうだけど!そうじゃなくて!」
叫んで、ファミレスだったことを思い出したようだ。
「あ、呼び方、しゅーくんでもいいよ」
「…………しゅうのがいい」
「俺も夏芽でいい?」
「うん。いや、その、だから」
俺は珈琲を口につけた。
生活様式の変更。睡眠時間。同衾。それらから想定される彼女の提案は大体想像がつく。
「さすがにわかるけど、俺が言うのも君の提案や準備に対して失礼かなと」
彼女は深呼吸をした。目付きが変わる。冷たい。氷壁流。
「わたしが将棋で強くなるためにわたしと一緒に暮らしてもらいたい。つまり、これは同棲の提案よ」
鍵村夏芽は一息で言い切った。
「いいよ。あ、麦酒飲んでいい?」
「反応、軽くない?」
「すいません。生中一つ。いや、てっきり、結婚かなーと」
「けけけけけけけ結婚って」
「奨励会って、どうやってもあと何年かしかいられないだろうし、昇段でも退会でもそれが決まってから式を挙げればいいかと思ってる」
「いや、わたし、今、同棲の提案をして」
「今週末にそちらのご両親に挨拶に行こうか。引越しするなら車借りた方がいいだろうし、引越し、いつにする?」
「話が早すぎて、わたしがついて行けてないなんて人生初だわ」
「愛してるよ、夏芽」
「すげームカつきますわね、こんちくしょう」
俺は届いた麦酒をぐいと飲んだ。
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