51日目

木村重信師匠が倒れたのは5月のゴールデンウィークが過ぎてからすぐだった。

木村師匠は身体が弱く涙脆く優しくて将棋が大好きな人だった。勝負師としてはプロ棋士としてギリギリで棋戦優勝やタイトルなどとは縁がない人だったが、解説が上手で地元の大盤解説会にはよく呼ばれており、初心者向けの入門書を数多く執筆し、地元の将棋教室も運営している。ちなみに夏芽も地元の将棋教室の出身だ。

師匠は48歳の頃に夏芽を弟子にしてくれた。幼くして子供を亡くしてしまった夫妻はわたしを実の娘のように可愛がってくれた。

「将棋が強くなるには、独りでなきゃいかん」

それが口癖だった。そして、こう続けるのだ。

「俺が弱いのは独りでいられないからなんだろうなぁ」

自嘲してから。

「夏芽ちゃんが強いのは独りで努力できるからだね。本当に強い人は誰も見てないところで努力ができる人なんだよ」

と、よく頭を撫でてくれた。

木村重信七段は64歳でフリークラスに所属しており、残った棋戦に負ければ引退だ。

最近はわたしの戦績とわたしの女流棋士の引退の相談を気にして、かなり落ち込んでいたと君野女流六段から聞いている。

(君野は旧姓で戸籍は木村である。独身時代の苗字で女流棋士活動を続けてきたのだ)

その日、師匠が起きてくるのが遅いので、女流六段が様子を見に行くと布団の上に倒れており、声を掛けると明らかに日本語が話せていなかったため、救急要請をしたのだそうだ。

・・・

「脳梗塞ですね。こちらの写真のこの場所から先に血管が写っていないでしょ。あと、これがわかりやすいですかね。脳の左側が白くなっている。これは血が通っていないということです」

医師からの説明に君野ゆかり女流六段は震える声で尋ねた。

「将棋は指せますか?」

「将棋、将棋かー。プロ棋士なんですよね?んー、ブローカー野中心ですしねぇ。かなり強い失語症状も出てますし。うーん。何とも言えないところです。ただし、言葉のスペシャリストのリハビリスタッフがいるのでリハビリを依頼しておきますね」

病室に向かうと、SCU(脳卒中集中治療室)では一人のスタッフが師匠と話をしていた。

「トゥータン!トゥータン!」

師匠の声が聞こえる。トゥータン?なんだろ、それ。

看護師さんに案内されて、師匠のところに行く。

リハビリスタッフがこちらを見て頷いた。

「え。修平?」

わたしが間抜けた声を上げた時、リハビリスタッフは咳払いをした。奥様に向かって。

「初めまして。わたくし、言語聴覚士の飯干修平と申します。木村様の食べたり、しゃべったりするリハビリを担当させて頂きます」

と、挨拶をした。

・・・

「人間の言語は大まかに『聞く』『話す』『書く』『読む』あと『計算する』という能力があります。木村様の症状はほぼ全失語に近く、それらの能力が現在はすべて障害されております。ただし、模倣ーー真似ですねーーができたり、手渡された品物を左手で受け取って、私に返すことはできていることから、状況把握能力は高いです」

「あの、トゥータンは……」

先ほど会話を試みたが、師匠は「トゥータン」や「タンタン」「トンタンタン」といった意味不明な言葉でしか反応できなかったのだ。ただし、奥様を奥様と、わたしをわたしと認識しているようで左手で(右半身は麻痺で動かせないとのこと)手を握ってくれたのだ。

「残語や再帰性発話と呼ばれる失語症状の一種です。メカニズムはまだわかっていませんが、言葉を司る左脳の部位が損傷されたため右脳で発話しているといった説や発話回路の一部残存などの説があります」

「治るのですか?」

「現状ではわかりません。予後予測は医師の診断になります。ただ超急性期であるため、症状の変動は予想されます」

「あの、飯干さんの見立てではどうですか?」

「全失語症状のある方の予後については認知機能が残存しているかどうかが最も大事になります。先程こんなことを試してみました」

彼は手に持っていた本をめくった。上半分に水玉模様の図があり、絵の中の左下に空白部分がある。下半分には空白部分と同じ形をした、各々異なる模様の書いてある図が6つ並んでいる。

「これはレーブン色彩マトリクスと呼ばれる非言語認知機能評価の一種です。ここにどれが入るかわかりますか?」

奥様は頷いた。

「4番です」

「これは言葉が使えなくてもわかる検査です。そして、木村さんに最初の5問を行いましたが、全問正答しました。お疲れのようでしたので本日は途中で終了しましたが、認知機能は残存していると評価しています」

修平は言葉を切ってから。

「正直、言語に障害は残ると思います。その程度はまだわかりません。ただし、認知機能が残っていることから、ある程度のやり取りはできる可能性があります。生活は」

彼は奥様とわたしをしっかりと見つめて。

「わたしは強くはないですが将棋ファンです。木村先生の横歩取らせのファンでもあります。将棋はシンボルのゲームであり、失語症はシンボルの障害です。また、人間が脳のどの部分を使用して将棋をしているのかは明確な答えは出ていません。そのため、将棋が出来るのかどうかについては明確な返答はできません。ただ、最善を尽くします」

「どうか、よろしくお願い致します」

奥様は深く頭を下げた。修平は頭が上がるのを待ってから。

「他に質問などございますか?」

「ーーあの、大変不躾な質問なのですが、弟子とお知り合いなんですか?」

ビクッと、わたしと修平が体を跳ねさせた。修平が頭を下げる。

「順番が前後して大変申し訳ありません。鍵村さんとは結婚を前提としたお付き合いをさせて頂いております」

近くで仕事をしていた看護師がとても嬉しそうな顔をしたのが印象的だった。


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