34日目②

鍵村夏芽は合理主義である。

基本的に言葉は信じない。行動や経歴ならば信じる。将棋においても、駒得や即詰みは信じるが形勢判断はいつも信じるに値しないと思っている。

この状況でどうすればよいのか?

ラブホテルの一室で夏芽はソファに座っていた。膝を閉じて、独特な甘い香りのする部屋の中で固まっている。

「注文できるけど、何食う?」

彼がメニューを提示してくるが、そちらを見ることもできない。赤い絨毯を延々睨み付けている。初タイトル戦でもこんなに緊張しなかったのに!

「おーい」

「わたしたちにはまだ早いと思うの!」

「いや、もう夜8時だし、腹減ったろ」

「え?何が?」

「晩飯」

「あ、晩ご飯ね!うん!た、食べよう!」

「エビフライカレーでいいか?」

「あ、うん。エビ好き。ーーえ、なんで知ってるの?」

「タイトル戦で大体エビフライ系食べてるじゃん」

息を飲む。言葉が思い浮かばない。だが、不快ではない。浮き立つような感覚。

「そ、そんなところまで観てるの?」

「まぁ、俺は君のことが好きだからな」

ーー多分、この感情は嬉しいというものだ。そう感じた。

鍵村夏芽は感情を信頼しない。感情は浮き沈みする氷山の一角に過ぎない。感情に流されるのは愚者の証拠であり、銀得に浮かれると王手飛車を食らうのが世の常だ。

拒絶せねばならない。

そうでなければ、わたしはわたしでなくなってしまう!

「わ、わたしは言葉と感情を信じない」

「……飯食ってからにする予定だったんだけどな」

彼は呟いてから、少しだけ空中を眺めた。片手に鞄を抱えている。

「10秒、目を閉じてくれ」

「イヤ」

「だよなぁ……」

言いながら、彼は視線を逸らした。

「暑くないか? エアコン何度になってる?」

わたしは立ち上がって、エアコンのキーボードを覗き込んだ。

「24度だけど」

言ってる間に彼はわたしのそばまで近づいてきていた。

「これを受け取って欲しい」

彼が見せたのは白色の小さな箱だった。彼が提示したそれを両手で受け取る。軽い。

箱を開けると、赤い薔薇を模した美しい布製の花弁が溢れていた。

一枚ずつ、取り除くと、銀色のリングが見えた。

ーー指輪だ。

イミテーションのガラスが入ったシンプルな指輪。

心臓の音だけが聞こえる。視界が遠く、現実感がない。

「これ、は?」

「プロポーズリング。下取りして婚約指輪の資金にもできるすぐれもの。婚約指輪は君も選びたいだろ? まぁ、付き合ってもないのにプロポーズは早すぎるのは百も承知だけどな。ま、結婚を前提に付き合いたいってことで」

「ぷ、ぷろぽーず……?」

頭の中で天使がラッパを吹き鳴らしながら踊ってる。

「うん。今から、プロポーズをするけど、いいかな?」

「は、はい」

「結婚しよう。君と一緒に生きさせて欲しい」

「ちーー」

自分の口から出た言葉に自分が一番ビックリした。

「長考させて!」

「…………エビフライカレー頼んどくわ」

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