88日目②

取材が終わって、彼の勤め先の病院に向かう。

今日は彼も半休を取っているらしいし、奥様と合流して師匠の様子を見て、まだ帰っていなければ神四冠に挨拶をしよう。足取りは軽い。

神四冠に対して憧れを抱いているのはわたしだけではない。将棋界にいて、彼に特別な感情を抱いていない人はいない。

シンプルな理由。全人類で最も将棋が強いのは神四冠だ。

憧れと羨望、嫉妬、尊敬、憧憬……

人によっては憎悪や殺意、愛情まで抱いているだろう。

いつか公式戦で、というのは贅沢だろう。研究会でも何でもいいので、一度盤を挟んで教えてもらいたいものだ。

受付に目礼をしてから、病室に向かう。看護師さんに一言声をかけると、その若い子は少し戸惑ってから「リハビリ中ですが」と述べた。

「飯干?」

「あ、そうです」

リハビリ担当者と患者家族に面識があるのは珍しいことではない。だが、苗字を呼び捨てにするのは珍しい。

違和感を感じているらしい看護師に、面白くなってわたしは左手の薬指の指輪を見せた。

「わたし、彼の婚約者なの」

「ッーーキャー!!!」

悲鳴にも似た派手な声を背中に、ノックをして、個室に入る。

「失礼します」

神四冠がいた。椅子に座り、彼の前には将棋盤と駒箱があり、対面の席が開いていた。背中の窓から光が差している。

ヤバい。神々しい。

「神四冠。いつも、お世話になっております。師匠のお見舞いに来て頂いてありがとうございます」

挨拶をする。修平が空席を示す。

師匠はベッドの端に座っており、右側に奥様が腰掛けて身体を支えている。

二人とも、ちょうど将棋盤が覗き込める位置だ。

「10分の切れたら30秒。そこの俺のスマホで対局時計アプリ起動してる。振り駒しておいたから、君が先手」

「え?」

「何も言わずに一局指してくれ」

「え?」

心臓が跳ねる。呼吸が浅くなり、視界が揺らぐ。

「頼む」

彼の真剣な表情。わけがわからない。わからないが。

わたしは深呼吸をした。

そして、笑った。

「願ってもないわ」

わたしは荷物を置いて、師匠と奥様に目礼をした。師匠は「トゥタン」と嬉しそうに声を上げ、奥様は深妙な顔で頷いた。

わたしは修平に声を掛けた。

「ミネラルウォーター3本」

「あいよ」

修平が部屋から出る。

『リハビリ』とでかでか書かれた駒箱を神四冠が開ける。印刷された大量生産の駒が出てくる。どの駒もボロボロで噛み跡があるものもあり、何故か桂馬と銀将が一枚ずつプラスチック駒だ。

この病院のリハビリスタッフが、患者が、何百局もこの駒で戦ってきたのだろう。

老若男女を問わずに盤を挟むことができる。

将棋というゲームは素晴らしい。

駒を並べる。駒の並べ方には大橋流と伊藤流があるが、ごく最近からわたしは伊藤流を好むようになった。飛車角香車という敵陣に直射する駒を後回しにするという不必要なまでの優しさが彼を想起させるからだ。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

神四冠がスマホアプリを指二本で叩く。平面なので、視線をやらないと押せない。わたしの右手側、盤のすぐそばにスマホは置かれている。

わたしは▲2六歩といつものように初手を放つ。間を置かず、神四冠は△8四歩と突き返した。▲2五歩△8五歩。

わたしの得意戦法を知ってくれているようだ。

それならーー

戦型は相掛かり。将棋ソフトを用いて研究した超最新形に誘導する。三段リーグですらまだ使われ初めていない、いかに神四冠といえどもまず知らないはずの戦型。

(ーーに、なんで最善手を指し続けられるのよ!)

変化を知っていた様子はない。明らかに考えながら、最善手を返し続けてくる。

(ーー格好いい)

そんなことを考えているようでは勝てない。駄目だ。相手を神棚に祀るようなことはしてはいけない。目の前にいる人は将棋の神様でも、人類最強の将棋指しでも史上初の七冠制覇者でもわたしが将棋を目指すきっかけになった憧れの人でも伝説の体現者でもない、ただの将棋指しだ。

思い込ませようとする。

局面は中盤。形勢は互角。こちらが想定していた変化から外れた。

自陣角を打ってくるなら、4四からを想定していたが、5三から打たれた。左辺に利かせてきた。端攻めを見せられ、こちらは対応せざるを得ない。それから、4四に角を出てこられーー

ーーーーあれ?

これ、ヤバくない?

その時だった。

コトン。トン。トン。ポス。

机にミネラルウォーターが三つ置かれた。わたしが好きな海外ブランドのよく冷えたミネラルウォーター。

そして、その隣には栄養補助食品。わたしが対局中によく食べるフルーツ味のものだ。

思わず、振り向いた。

飯干修平がそこにいて、軽く頷いた。彼はそのまま、師匠の左隣に座った。彼も視線を盤上に注ぐ。

深呼吸をする。左手の薬指の指輪を触れる。当然にそれはそこにあった。

ゴツゴツしているのは婚約指輪だからだ。あまり手触りがよくない。近いうちに、もっと日常的に使いやすいように結婚指輪に買い換える必要がある。

栄養補助食品の包装を破る。取り出した直方体のそれを口に含み、咀嚼し、ミネラルウォーターで流し込む。

相手が神様だろうが、悪魔だろうが、関係ない。

やっているのはただの将棋だ。わたしにできることは盤上で最善を尽くすことだけだ。

思考にすら満たない空白の時間に頭蓋の内側で脳髄が高速回転する。

彼には救われてきた。出会った時から、何度も、本当に数え切れないほど、助けられ、守られ、救われた。

この対局だって、彼がお膳立てをしたに決まっている。そうでなければわたし以上に多忙な神四冠が時間を割いてくれるわけがない。

何でもできる器用な彼とは違う。

わたしには将棋しかない。

いや、わたしには将棋がある。

(彼の前で恥ずかしい将棋を指すことだけはできない)

自陣に角を打ち付ける。徹底防戦。いかにも氷壁流な、わたしらしい一手。

この角が働けば勝つし、働かなければボロ負けだ。

相手は神四冠。その攻めは文字通り世界最強だ。

関係ない。彼が後ろにいる。怖いものなど、何もない。

(全部受け切って勝つ)

深呼吸して盤上に潜り切る直前に覚悟を更新する。

(これで勝てなきゃ、女がすたる!)

・・・

終盤戦、詰むや詰まざるや。

ギリギリの攻防の中で、わたしは馬を一つ寄って詰めろを掛けた。

師匠が背もたれを起こしたベッドから盤面を覗き込んでいる。

師匠が口を開いた。

「詰めろか。いや……」

師匠の声。え。と、同時に、甲高い機械の警報音がけたたましく響いた。

「木村さん!大丈夫ですか!」

叫び声とともに、看護師さん達が病室に雪崩れ込んできた。

修平が立ち上がり、看護師さんに笑いかける。

「将棋で血圧上がっちゃったみたいで」

言いながら、モニターを操作した。215/123という数字が点滅している。計測が終わると今度は152/98になった。

「木村さん、大丈夫ですか?」と、看護師さんの一人が問いただすと、

「トゥタン」と笑顔を見せた。

修平が看護師さん達に頭を下げる。こちらに視線をやる。

「申し訳ありませんが、対局は中止してください」

キッパリと言った。

神四冠は名残惜しさもなく、頷いた。駒の数を数えながら、さっさと駒を片付けた。

看護師さん達がいなくなって、改めて修平が神四冠に頭を下げた。

「木村さんは脳梗塞のため、血圧コントロールが必要です。対局観戦による血圧上昇まで想定できなかった私の責任です。申し訳ありませんでした」

「お気になさらないでください。病院で対局してしまうのも非常識でした」

柔らかく、神四冠が告げる。

わたしも頭を下げる。

修平が神四冠に視線をやる。彼は頷いた。

「鍵村さん。私の弟子になりませんか?」

「ーーーーはい?」

「鍵村さんが女流棋士を引退し、三段リーグに集中したいという想いは飯干さんから伺いました。ですが、鍵村さんを失うのは女流棋界にとって大きな痛手です。できれば、休場にしたいところです。私が師匠になれば、私も気兼ねなく尽力することができます。木村七段も君野女流六段も同意してくれましたよ」

「ど、どうして」

「それは後で土下座までしてくれた彼に聞いて下さい」

「ど、土下座?え?」

「どうしますか?」

深呼吸した。いつものように。深く。鼻腔から吸い込んだ吸気を肺に取り込み、充分にガス交換をしてから口腔から吐き出す。

「一つだけ、聞かせてください。何故ですか? 神四冠にはメリットがないはずです」

神四冠は子供のように笑った。

「頑張っている人の応援をしたいというのが一つ。もともと鍵村さんの多忙さは心配していたというのが一つ。それと、これは今の対局が中途半端になってしまったので、なのですが」

言葉を一度切ってから。

「四段になった鍵村さんと公式戦で私が対局したいからです」

頰が熱くなる感触。そして。

わたしは深く頭を下げた。

「師匠。よろしくお願いします」

木村七段が涙を流す。流しながら、声が漏れた。

「トゥータン!トゥー!!!」

その声は病室に木霊した。

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