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遠き地の伝説の皇子,今は川の流れのように

少しこだわりがあって,30年以上,JR久留里線の小櫃駅前にある理容店で散髪しています.小櫃の付近を流れる小櫃川は,生態環境の野外調査のメインの対象河川としてきました,最初の調査は小櫃川と支川の御腹川(おはらがわ)の合流地点でした.

 壬申の乱(じんしんのらん)〔西暦672年〕は,大友皇子(おおとものおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)が戦った,古代日本における最大の内乱です.史実では,瀬田橋の戦い(滋賀県大津市)で大友皇子が率いる近江朝廷軍が大敗し,大友皇子は首を吊って自決し、乱は収束したと記録されています.

 千葉県には,大友皇子が壬申の乱の敗戦後に,密かに落ち延びたとする伝説があります.君津市俵田の小川御所(現在の白山神社)で暮らしていたそうですが,大海人皇子が差し向けた追討軍に急襲されて亡くなったとのことです.

 聞いた話では,「小櫃川」という川の名前は「御(おん)柩(ひつぎ)の川」から転じて「小櫃川」となったそうです.御遺体を水葬した川だそうです.また,御腹川(おはらかわ)は,その川のほとりで腹を召されたことでついた川の名前と聞いています.

 大友皇子の妃(きさき)は,藤原鎌足の息女です.藤原鎌足は現在の木更津市矢那で生まれています.大友皇子にとって小櫃は全く縁の無い土地ではなかったのです.また,大友皇子の母の出身地は伊賀国(三重県)です.古の影の軍団が,傍にいて皇子を守っていたのかもしれません.

  希望を纏った僕たちは今
  唯一無二の弱者,強気でいいじゃん
    (Vaundy,「おもかげ」より)

 何の根拠もない私の想像です.大友皇子には,さらに小櫃からも落ち延びていてほしいのです.房総から先の伝説はありません.唯一無二の弱者は最強です.伝説には成らなかった「幸せな伝説」があって欲しいのです.私たちは敗者に対しても尊敬の念を忘れません.他とは違う,かけがえのない島人(アイランダー)なのです.

 川を流れ下る水は,上流からきて,下流へと去ってゆきます,戻ることはありません.人も同じです.街には同じような顔つきの人が,何時の時代にもいます.どんなに時が流れても.

 小櫃川の河口付近にできたアウトレットモールの人混み中で,すれ違った,ワイヤレスヘッドホンをつけた,上品な顔立ちの青年は,実は皇子の末裔だなんて想像してみるのは,ワクワクしますよ.

それでは,また,何時か何処かで.

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