急に言われてもと、それは聞いてないの裏側にあるもの

職場で起きた出来事によりイラっとやモヤっとやムカッとさせられたときによく出てくるフレーズがこちら。
「急に言われても(困る)」
「そんなこと(風になった)とは聞いていない」

あらためて言葉を噛んでみるとなんて傲慢なフレーズだろう。
自分も含めて何者も信用しておらずシナリオ通りの予定調和でしか動けないというか動かないでいい理由を探しているように見える。
こういう言い方をする人の言葉の裏にある思いは何だろうと考えてみたときに、プラユキ師のこのツイートを思い出された。

思うように進むはずだった何かしらが、あなたに妨げられたことで思うようになならなくなったことが苛立ちをもたらしているのだろう。

ここで必要なのはあらかじめ起こることを聞いておくことだろうか?言えることならそうかも知れないがほとんどの起きるあれやこれやの事柄は人の意思によらない。

だからあらかじめ「思うようにはならないものだ」「思うようになっていると思えたなら(たまたまだが)それはラッキーな瞬間なのだ」と前提のハードルを下げてしまえば良い。
プラユキ師が瞑想指導でいつもおっしゃる『空にならなくてはとか、妄想を起こしてはいかんとか、瞑想を始める前に自分自身に前提条件を設けない』『なにが起こってもオッケー!で戻る』と同じ

起こった理由なんかは一旦外に置いといて、もう起こっているんだから今必要な対処があるならそれを先にする。
文章にして書くとこんなに当たり前でシンプルな行動方針はなかろう。なのになぜか私は目の前の起こったことが不思議で仕方ないし、何があったか、ではなくなぜ起こったかを考えてしまいがち。

おー、こんな突発が起こっているな
想定してなかった事態が起こっているので自分は〇〇しようと焦っているな

と目の前で起きていること、自分の心や頭や腹の中で湧き起こっていることを覚めて観てみる。心臓バックバックしてるなとかアドレナリンらしきものが流れて体温が上がってきて暑いとか。

まずは自分に起こっていることを一歩引いて観る、それができれば次は周りで起こっていることを見る、誰々さんが焦っているなとか、今の指示の仕方だと自分は乱暴だと感じたなとか。

そうして覚めていられると、今ここ、で自分がなにをすべきか、あるいはすべきでないかの選択をすることができるようになるのだ。
いつもいつもできれば悟っている状態だろうけど、そこまではなかなかいけないが故に、できた/できなかったの二元論で語るのではなく打率の問題として考えるのがよろしいかと考える。

今日の打率はどうだった?

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