冷笑に愛をこめて

少し前に冷笑アカウントがITF.界隈で猛威を振るった時期があったのを覚えているだろうか。あの2つのうちの1つのアカウントが消えたとき、私は寂しささえ覚えた。私は冷笑が嫌いではない。ああいう悪意はインターネットに常に存在するべきものである。

冷笑とは、蔑み笑うこと、とグーグル先生は言っている。私は悪意を持って他者をけなしたり嫌がらせをしたりしているアカウントを冷笑垢だと思っている。目に余る自虐をするアカウントとも混同されることがある。

冷笑垢は基本周りに迷惑を撒き散らす。いきなり通知が来て何かと思ったらリプライや引用リツイートで自分のことが侮辱されていて、気分を害される。それにいくら反論してもムキになっているようにしか見えないため、反論するだけ無駄である。名誉を傷つけずに対処するには、黙ってブロックすることだ。私はインターネットという開かれた世界で相手に自分のツイートが見えなくなるということはあまりよくないという思想を持っているため、メンタルが弱っているときに見えないようにミュートするだけにとどめているのだが。

私が冷笑アカウントを好きなのは、彼らはたまに正しいことを言うからだ。ムキになって彼らを論破しようとしてしまうのは本当のことを言われてしまったからである。相手とエンカして親しくなってしまえば、相手は本当のことを言わなくなる。売れない劇団員がチケットを買い合って舞台を褒め合うみたいな、心地のいいぬるい空気の中で生きることになる。波風を立てないという意味ではたしかにそれはいいことだ。喧嘩も起きないしとても平穏だ。でも、自分の中ではそんなわけないだろという感情が強まっていって、全部この平和を壊してしまいたいような気持ちになる。そこで冷笑アカウントに感じていたことを言われると、やっぱりちょっと傷つくけど、そうだよねと納得できて逆に落ち着くのだ。あと、単純に自分にはとても言えないけど思っていたことを言ってくれたりするのでスッキリする。

冷笑アカウントはよく考えたら恐るるに足りないものだ。人への嫌悪や嫉妬を拗らせて人を傷つけようとするが、所詮現実ではそんな言動はできなくてネット上で人の粗探しをしたり嫌がらせをしたりする弱い人間たちである。そんな弱さを私は愛おしいと思う。完璧なところを見せてくる強くて優れた人間たちよりもよっぽど安心して接することができる存在だ。しかも、冷笑はずっと続けていると精神力が持たなくなってくるので、徐々に攻撃性が失われていく。前述した消えた冷笑アカウントも終盤は明らかに言動にキレがなかったし、攻撃性を他者に向けるのではなく自分に向けるようになるアカウントもある。そうなってしまえばもう他者を傷つけることもなくなるので、本当にただの愛すべき弱い一人の人間になってしまう。

私は、人には誰にでも居場所が必要だと思うから、他者を害する者でもすぐに排斥する姿勢はあまり好きではないなと思う。インターネットこそそういう弱い者の居場所になることができるのではないか。でも、だから我慢しろなんて人に強制することはできないから、せめて私だけでも赦して見守りたい。すべての冷笑に愛をこめて。