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源平合戦 其の七

高松平家物語歴史館

ここは蝋人形で平家物語がとてもリアルに
ディスプレイされた国内でも有数の
博物館だった。
というのも平成31年3月24日を以って閉館。

私が訪れたのは14年前。
記憶に残っているのは義経の鵯越の逆落としを表した彼の形相。

その場所は神戸市須磨区にある急傾斜の土地。
まさかこんな崖の上から襲われることはないだろう場所から、義経は平家を奇襲攻撃。

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ほんとにこんな急斜面 馬で下れるの?

多分使い捨てカメラを使用したと思われる
この画像。右の立派な兜をつけているのが義経で真ん中の白い頭巾が弁慶。

こちらはもう少しましな画像
義経の怖い顔が…

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”「平家物語」の舞台を歩く” 著 三池純正
という本をぺらぺらめくり読んでいると
この鵯越の逆落としは実は義経ではなく
多田行綱なのではないかと書いている。

なぜなら鵯越のみちは一の谷から東に8キロも
離れておりその真下には一の谷はないのである。

平家物語、吾妻鏡に描かれているのは鵯越から義経たち三千騎が、急峻な坂の下に一の谷城を見おろしている場面がある。鹿がそこをおりて行くのを見た義経が彼らの馬を何頭か追い落とし、無事な馬がいるのを認めると自らも馬と共に一の谷城へかけおりる・・・。
しかし、実際は8キロの距離がある。
そのため、著者は鵯越から攻め込んだのは
多田行綱、義経たちとは別働隊の者たちだったろうと書いている。

翻って、この合戦の模様を書いた司馬遼太郎先生の「義経」を読むと鵯越から一の谷まで3里の距離があることになっている。実際に義経の行軍
コースを先生は自ら辿られたので鵯越からまっすぐ下が一の谷でないことを確認されている。
そのうえで義経が鵯越から一の谷へ行軍し、平家に攻め込んだと描いている。

歴史物語を、紡いだり歴史について記す場合
現地へ足を運ぶことはとても重要なことなのだなあ。





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