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皆様の中にある"基準"

1メートルは両手を広げた端から端…
1センチは親指と中指で人差し指を摘む程度…

どこかで誰かから聞いたのか。はたまた本や雑誌、TVで見たのか。自分の中にある基準。

私には一つ、どうしてその基準が決まったのかをハッキリ覚えてる事がある。
100mという距離の基準だ。


小学生の頃、たまに学校帰りに立ち寄る文具店があった。ちょっとした駄菓子も売っているような小さな店だ。
家からは少し離れていたが、学校帰りにそこで駄菓子やら20円のアーケードゲームやらをしに行ったものだ。

ある日、そこの外のふとした標識が目に入った。

『〇〇小学校100m先⇨』

自身の通う小学校への距離が示された標識だ。

その瞬間、私の中の「100m」はその文具店から小学校の正門までの距離だという基準が生まれた。

低学年でまだ小さかった私にとって100mはとても長く感じた。

まず、信号機のある交差点を渡り、向かい側の塾と定食屋の間の細い路地へ入って行く。
小学校近くの道だけあって至る所に「飛び出し注意」の文字と車が急ブレーキしてる絵が描かれた看板。
その中の一枚の車が落書きで上手い事シャコタンの車になってたのも妙に覚えてる。 
しかしあの落書きセンスはどこからくるのだろうか。。
そして中盤辺りにあるアパート一階のいつもドアが開けっぱなしの部屋。
その部屋の前を通る際、謎の緊張感が張りつめたのも覚えている。

いよいよ終盤、左手に同級生の家があり、そこからはもう正門が見える。
8:10に出れば間に合うじゃん…(確か8:15までに教室?)などと学校の目と鼻の先に住んでるその同級生を羨ましがったり。

それから大人になっても距離標識を目にする度
(ここから向こうまで600mって事は、文具店と小学校3往復分か)などと考えるようになっていた。

そしてつい最近。どうしようもないこの腹の肉をどうにかしようと、本当にたまにだがウォーキングする事があるのだが、どうせなら思い出の場所を歩いてみようと思い、私の中の100mの地へと向かう。

例の文具店はとっくに無くなっているが、街並みはどこか昔のままだ。
(ここから小学校までが100mだよな確か…)
塾や定食屋も無くなっているが、路地に入った先はさほど昔と変わらなかった。
古くなり校舎は建て替えられたものの小学校も健在だ。

そうそう、ここで空き缶蹴って歩いてたらこの家の人に怒られたなぁ…
開けっぱなしのアパートもさすがに無くなってるか…
飛び出し注意の看板も新しくなり、例のラクガキを見る事も叶わなかった。

そして


あれ?もう〇〇(同級生)の家!?

えっ?嘘でしょ?もう正門?


体感的には子供の頃感じた「100m」の4分の1程度に感じた。
建物や看板は新しくなっても距離まで縮むわけがない。
いや、何かの間違いだ。あの頃はもっとワクワクと緊張が入り混じっていた。こんなすぐ終わるわけがない。
もう一度文具店の場所まで戻ってみる…

嘘…だろ…


やはりあの頃の距離ではなかった。
そうだ、確かGoogleマップに"距離を測定"なる機能があったはず。
恐る恐る測ってみる。


140m


え?まさかの長かった。

という事は今まで基準としてた100mは140mで、600mは2往復半ぐらいで……あーもうわけが分からん。。
いや待てよ…140mを100mと思いながらこれまで過ごしてたって事は、毎回40m分はカウントされてない…その分得してないか!?
など意味不明なポジティブ思想に駆られたり。

いや、しかし今更自身の中の100mの基準を崩したくない。
よし、決めた。基準は変えない。
Googleマップがなんと言おうと私の中の100mは文具店から小学校までだ。
そう心に誓い、今日も「〇〇まで〇〇m」の標識を目にする度に頭の中であの道を往復するのであった。
皆様も自身の中にある"基準"を大切に。

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