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狭い視界と広い世界

 皆さん。ミリシタ楽しんでますか? 私はすっごく楽しいです。どうして楽しいかって何よりも驚きに満ちているからです。常に新しく、挑戦し、最高を更新する。それがミリオンライブの在り方だからです。今回のイベントも実に素晴らしく、また驚きに満ちたものでした。役を引き継ぎながら続いていく劇中劇イベント、スターダムロードシアター。前回もそれまでの印象を覆すような内容でしたが、今回もまた新たな視点を見せてくれました。これまで主人公であった真珠星ではなく、なるを主役としたストーリー。なる役の美也の演技も素晴らしかったですが、それだけでなくなるを取り巻く環境やキャラの見え方が真珠星が主役だったこれまでとは全く違うもので新鮮でした。それを齎した最大の要因とはなにか。それは視界の狭さだと思うのです。今回はそれについて語っていきます。
 創作とは一つの世界を作る行為である。人を置いて、物を置いて、イベントを置いてその影響し合うさまを脳内でシミュレーションしたものを形にしたものが作品である。一方でそれを物語にした場合は世界の全体を映すことは難しく、大抵は登場人物の視点という狭い窓から世界を覗くことになる。これにはメリットもあり、情報量が絞られるということはそれだけ見やすくなる。目指す先も明確になり読者は感情を乗せやすくなるし書き手は物語を書きやすくなる。故に多くの物語は狭い窓からの景色だ。
 前提として窓の中の景色が面白いことが最優先事項だ。そこに魅力がなければまず誰も見ない。だが、その窓の外の作りこみが物語の完成度を上げることもある。技法として、あるいは書き手の思想の結果として窓の外まで精緻に作りこまれた世界は人々を魅了する。また、複数の窓から見える景色によって世界の広さを表現する作品もある。一つの作品においてそれをするのは群像劇。複数の作品にまたがってそれをやるのはシェアードワールドと呼ぶ。
 世界の広さを描くときに効果的な方法には大まかに分けて二つある。一つは繋がることだ。複数の視点や価値観が交錯し、世界観を混ぜ合わせ、雑多さを際立たせる。そしてそれらがぶつかり合ったり結びついたりすることでより奥行を持ち多層的な物語が生まれるのだ。もう一つは狭めることである。一人が見る世界は狭く、バイアスがかかっている。内と余所、建前と本音などの形においてそれは表され、一つの視点が持つ限界を浮き彫りにすることで逆説的に世界の広さを見せるのだ。こんな話がある。シェアードワールド中の代表的なものであるマーベルコミックにおいてスパイダーマンがよく「なぜ自分はこんなにも不幸なんだろう」と嘆く。確かにスパイダーマンはマーベルにおいて不幸の代名詞となっているが不幸なのは彼だけではない。スパイダーマンが恋に破れたり新聞社に誹謗中傷されたり赤貧に喘いだり親友の父親に裏切られたり和解したり裏切られたりを繰り返している時、同じニューヨークの中でもデアデビルが法の限界に苦しみながらマフィアと孤独に戦っていたり、パニッシャーが己の生い立ちを辿って、家族の死によって復讐鬼となったダークヒーローというアイデンティティの崩壊と幼少期からどうしようもなく暴力に依存していた自分に向き合ったり、宇宙の果てではソーが仲間を皆殺しにされ空っぽの玉座で死ぬことも許されず無為な戦いを繰り返していたり、X-MENは差別と闘ったり内ゲバで国が崩壊したりドロドロとした恋愛ドラマを繰り広げたりしている。けれどスパイダーマンは自分が宇宙一不幸のように語る。彼が嘆き苦しんでいるのと同じ世界でまた彼の地獄とは別の種類の地獄があり、比べられるものではない。それなのにだ。この視界の狭さはスパイダーマン誌だけ読んでいるうちは実感できない。複数誌読んで俯瞰することでその意味が分かるのだ。色んな世界観があってそれぞれのキャラがその世界観の内側から認識できないことを読者は認識し、それらを一つの世界に内包している懐の広さを知るのだ。
 今回のコミュにもそういった視界の狭さが効果的に使われていた。なるから見る真珠星はとても明るく前向きで、眩しい存在である。眩しすぎるほどに。天才アイドル織姫の妹という大きな期待を背負いながらそれに負けない逞しさ、目的の為ならどんな努力も惜しまない強さ、その中でもなるのことも気に掛ける優しさを失わないでいること。なるにとって真珠星は眩しすぎて、時に目障りに映る。今回はまさにそうだった。アイドルとしての立ち位置も、恋も、全てで負けている。そんな相手に気安く手を差し伸べられたら、劣等感でいっぱいになるのも無理はない。真珠星の視点ではそうではない。モノローグの中で姉を失った喪失感やアイドル業界への恐れや好奇心など心の揺れ動きが描かれ、真珠星という等身大の少女がそこにいた。なるからすれば真珠星の行動は自分を追い込み、焦らせるものだが、真珠星からすれば友人として当然のふるまいをしただけだ。真田湊のことだって本人からすればうっとおしいだけである。今のところは。けれど今回なるの主観で描かれている以上そういった真珠星の機微は窓の外にあり、物語から排除されている。なんなら前回はネームドキャラだった湊すら今回はセリフ一つだけで配役なしだ。そこは人数調整の都合かもしれないが、なるの追い込まれ具合を効果的に表現していると言えないだろうか。人よりも自分の感情しか見えていない。湊本人よりも奪われたという認識が、敗北感がなるにとっては大きいのだ。真実よりも主観、レイヤーによる認識の違い。複数の窓は世界を如何様にも見せる。そしてだ。これまでスターダムロードシアターを追ってきた人は真珠星の視点も知っている。陰口を叩かれていた真珠星にとって唯一の仲間であったなるも、またなるの一面であり今回見せた顔と同時に存在するものである。複数の窓を比較し、俯瞰する。異なるレイヤーと認識、そこから導き出される客観的な真実。読者だけが知る違い。これこそ世界だ。人生だってそうじゃないか。いつだって自分の知らないところで何か起こっている。一人の世界はとても狭くて見えないものだらけ。人の気持ちなんてわからない。物語の登場人物だって同じ気持ちではないだろうか。主観の中で、知らないことだらけの世界を懸命に生きている。だから間違いもするし迷いもする。そんな姿にシンパシーを覚えるのではないだろうか。直近のメインコミュが一方通行の愛を続ける覚悟や形にして思いを伝える大切さをテーマにしていたのもそんな世界で生きる人間の真に迫った営みを感じさせる。
 世界の広さは視界の狭さによって作られる。一見アンチシナジーな要素の意外な相関性。ミリオンライブの広さと狭さ。理解していただけただろうか。なら幸いだ。そして何よりも、実際に体験して欲しい。ミリシタのコミュは面白いのだ。
 どの主人公に肩入れするもあなた次第のミリオンライブの世界を楽しもうじゃありませんか。

本質

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