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常識とは。。

常識というものはその時代、場所に適用される一つの型である。それ以上の普遍的価値感ではない。しかし人は専門的に考えている以外の分野に関しては、この常識という昔の概念に立拠することを躊躇わない。なぜなら過去に証明された事実である、とその普遍性を無意識に信じているからだ。(何故か伝統は軽んじる物だ)そのくせ新しい事物、概念も含むものに過大な期待を抱くものだ。人は過去という物を常にゴミ箱に投げ捨ててきた。今や三十年前のものすらその存続が危ぶまれている。戦後のといっても僅か80年足らず前の事物は、遥か一掃され、記憶も曖昧になっていく。百年続く物を尊敬の気持ちで見るのも、実は事物であれば素材や構成が、概念であればその構成がそれだけ持たない事を知っているからではないかと、寧ろいぶかぶる。最近戦後80年と言っても、すごく身近に感じられてならない。時間感覚が延伸されて、数十年という時間を圧縮したのか?それとも4次元的な感覚にあるのか?

常識は変化するもの

環境や情勢が変われば、その常識は同じ答えを出せない。いわば化学実験で、環境を限定するのと同じだ。全く同じ環境で再現できる事が、科学的に正しいこととなる。つまり人の常識というものは、この科学の証明方法を参考にしつつも、環境に関しては目を瞑った政治的な正しさの醸成による産物だということだ。
それが証拠に私たちは世の中の常識の、根拠を知らぬまま覚えそらんじることに疑問を抱けない。闇雲に過去の成功例を常識であると信じ込む。それが故に現代においてのさまざまな事実との齟齬が生じてくる。もっとも人のすることであるので、イレギュラーは当然あると思うのだが、科学的な(いわゆる正悪2元で)論考をついつい受け入れる私たちには、一つのイレギュラーが重大な論理の欠陥に見えてしまう。
常識とは時代によって変化して当然のものなのだ。なぜなら事態を分析する私たちは、当時の情勢とずいぶん離れた今に生きるからだ。同じように思える問題も、当時と今の環境が変わった中で発生している別の事案であり、多少の関連性はさんにこそスレ、絶対的な揺るぎない論拠に常識というものを据えてはならないのだ。そうすることで事態の把握は困難になり、結局その原理は理解不能なものとなる。なぜならその常識が成立した時代と今では環境含めさまざまなものが変化しているからである。

真実の証明方法の歴史

以前何か思いついた事を言うと、“そこまで言うなら証拠を見せてみろ“と言うやり取りに言い負かされる事が多かった。これは証拠が集めにくい状況であったためだ。ところが2024年の現代では、それこそ写真、文書さまざまな証拠が集められる状況になった。
多少なりとも賢明な批判者は、以前のような“証拠出せ“とは言わなくなったようだが、今度は常識というものを引き合いに出し、普遍の概念の擁護に必死になる。今の学者特に文系の学者は、新しい物を探求する気概はなく、昔からの伝統的常識の擁護に、証明に日々を費やしている。そもそも科学的な検証は、国際情勢や心理、自然には不適合なのだ。どれも広大な裾野をもち巨視眼的な立ち位置でないと把握が困難な事象ばかりだ。
それが故に人は小さなものの研究から、科学的な手法を適用してきたのではなかったのか。科学はいわゆる人の人のためだけの宗教に近いものだ。その恩恵(効果)に最大限浴するのは、人だけであると言う観点から。
物的な証拠・動かぬ証拠というものは、私文書〜写真と変遷を経てきた。私文書は筆跡鑑定という根拠を持ってその正当性を担保していた。写真は合成写真か否かという科学的な手法で、その真実性を担保してきた。筆跡の鑑定は閉鎖的な環境で行われていたが、写真の鑑定はUMA写真、UFO写真の真贋判定を関与させつつ、真贋判定方法を担保してきた。その背景には写真というものに対する不信感を植え付けようという意図があったのかもしれない、そこまで考えていなかったかもしれないが、結果として写真の信憑性を貶めす世論が形成された。
その次には動画が取りたざされようとしたが、これもフェイク動画という宣伝によって証拠足り得なかった。むしろAIの開発により戦時下のウクライナの首相の降伏を勧める偽動画が政治的プロパガンダに使われるしまつだ。この技術の披瀝により、動画の信憑性は果たして地に落ちた。しかしこの生成AIがいきなり発生したのか?といえば必ずしもそうとは言えないだろう。ひょっとするとかなりの昔から、このようなデマの流布というものはされてきたかもしれない。古くは替え玉(人自体を整形手術などで、対象者の替え玉を作るというもの)または変装などの手段によって対象者になりすます、などということは連綿と続けらてきたことだろう。

現代の証拠とは

現代の特徴は、インターネットというインフラを経由して、同時に数万人が同じものを視聴できるということだ。過去はその場に行かなくては聞けなかった言葉も、今では自宅で手軽に視聴できるようになった。つまり真贋の鑑定以上に、視聴対象が格段に広がって、情報の拡散が果てしなく広がってきているということだ。しかし、だ、現在最大の問題は、視聴者側の感覚の麻痺が凄まじく進んでいて、重要な真実がポロポロとこぼれ落ちていっていることだ。人は求めている意見にだけ、敏感に反応するものだ。膨大な情報の中で、それだけを探していて、他のものにはどんどん無関心になるものだ。視聴者は視点をもっと高いところから俯瞰するという立場を取り続けなければならない。それは随分と大変なことだろう。いわば自覚の問題だけなのだが、自身が地表にいると思っていれば、俯瞰などという意識は持ち得ない。人が多く集うのはやはり地表(共通認識・意識のある場所)であるゆえに、そこから乖離してゆくことの疎外感と、漠然とした不安感が付き纏うのだろう。
過去より決定的な証拠とは、加害者本人の自白である。この場合は加害者が自らの罪を認めた前提の告白となる。昨今は罪を認めない(山下被告等)逮捕者・犯罪者が増えている。その背景には証拠に対する不信感(加害者にとっては動画の証拠ですら、決定的ではないと考えている可能性がある)があるようだ。実際のところ犯罪者の動機がはっきりしないと、罪を裁きづらいという状況が、いつの間にか蔓延してきた。これは刑法が発布された時の、性善説という原理原則が働いているのだろう。ということで被告になった逮捕者は、黙秘だけではなく民衆の同情をかうことで世論を動かし、そうして司法の判断を揺るがしている事実がある。動かぬ証拠だけでは現在は被告を罪に問えなくなってきている。従来の動機以外に犯行時に正気であったか、などという性善説に基づいたおかしな事態となっている。事件当時に精神的に不安定な状態であった場合、個々人の個性・個人を特定の社会的な個人と決定できる根拠がなく、それゆえに社会的な道義を問えないとした妙な論法がまかり通ることとなった。
規則も法律もその時代時代の背景を持つ以上、過去の判例が全て正しいとは言い得ないはずである。にもかかわらず、判例を遵守するという思想は、今この時での判断を放棄し、過去の事例に盲目的に従うということである。このような司法のあり方が現状にそぐうはずもなく、抜本的な見直しが必要であると考えている。では一体何が正しいのか?それは司法の立場で日々討論され共有され、そして開示されるべき事象のはずである。
過去の犯罪に当たることが、現在では犯罪としては認められない、またその逆に過去犯罪であったことが、現在では犯罪に当たらないそんな事例は本来五万とあるはずだ。基本的に憲法がしっかりしていれば(GHQなどの外国の思想・思惑が至るところに差し込まれたものではなく)、補足する意味での法律が健全な立場から時々の国益を重視して立てられ、時勢にそぐわなくなれば廃案すべきである。日本人は特に掟に縛られやすい・論拠を欲しがる民族性を持つ。それゆえに掟の更新というものは、日本的民主主義の必須項目なのだ。

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