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善意と悪意とは

今までの疑問の糸口が見えて、掴めそうになった。悪意とは無自覚であればあるほど、暴走する物だ。逆に善意とは無自覚であればあるほど深まる物だ。どちらにせよ意識は本来無制限にひた走る性質を有する様だ。
意図があるかないか、たったこれだけのことで、意識には抑制を効かせることが出来る。その意図が公共に利益をもたらすか否かで、善悪の区別をする。いわゆる社会的善悪だ。ただしその時々の社会の状態により、善悪の判断基準は当然変わる。普遍の基準というものがない為(知っているからこそ)社会には、憲法と法律と言う二つの基準を求める理由があるのだ。
と言うことは、法律はその時々で改変または撤廃されるべき物で、無尽蔵に増殖してゆく物ではないはずだ。しかし実態はどうであろう。過去の判例に基づく論拠なしには、罪を裁くことにも自信を持たない官僚ばかりではないか。何十年も前の判例🟰過去の社会観の中なされた判決、その趣旨に論拠を求めなければならない、近視眼的な法解釈。これを良しとする風潮。本来であれば、論拠の本質を突き詰めなければならない物を、否定を恐れて二の足を踏む。本質を無視して事実のみを叫び、過去の事例と現在の事例を同列に並べて憚らない、そんな代議士が何と多いのだろう。
国民の善悪の意識は、今や道徳ではなく法律に支配されている。戒律に支配され、行為の善し悪しの判断を宗教に全面的に委ねている、イスラムの人々と何ら変わるところがない。
近代史も何段階かに分類し、明文化し、社会情勢にそった立法を期待する。逆に戦後の法律家達は、余りの進歩のなさに何を感じるだろうか。国会議員達も同様である。
個人が社会に露出が多くなると、個人の正義に齟齬が出やすくなる。およそ個人の善悪の方が根源的な善悪に近いと感じる。ところが厳格な行動原理は、社会の中でその制約を剥がされてしまうのだ。緩められてしまうのだ。その誘惑に人は抗えない。今までの制約が厳しければ厳しいほどに。
人の意識というものは、身体感覚(感情を含む)に根ざしている。実環境、脳内環境に置いての快不快の認識が感情に影響を与える。実際のところ脳内時間では現在という時間認識が実環境より長い。これは認識というものが個人的な範囲では、途切れることなく続いている事実に理由が有る。外部の事象に対する認識は、客観的に処理されるゆえにある意味断続性がある。しかし身の回りであればあるほどに、連続性の方が際立ってくるのだ。この理由は危機感知という欠くべからざる生き物としての基本の反応に起因している。
個人の感情を他人に見せる行為というものは、基本的にはタブーなのではないか。一般的な意味でも、心情的な意味でもだ。個人の思考プロセスや、個人的な知識の多寡を晒しつつ、自身の正当性をその存在全てで他人に問うという行為は、基本的にはしない。なぜならある程度の推察で、子供の頃のことや、思春期、青年期は推察でき、自分とさほど変わらぬ体験をしてきたはずだと信じているからだ。その背景には時代への信頼というものと、自分が当たり前に経験してきた事例(例えば通信端末・パーソナルコンピューター)が進化に沿ったことだったため、初めから身の回りにあって、いきなりそれを手にする世代がいることが想像できないのだ。そしてその影響も。
果たして、辞書を数種類カバンの中に入れ中学高校大学と通学していた常識は、1個の電子辞書の児童への普及によりものの見事に打ち砕かれる。ビデオに録画してテレビで再視聴するしかなかったコンテンツが、繰り返しいつでも観られるネットを介したサービスにより、月曜日の連続ドラマの放映に合わせて帰宅していた過去の事実を、思い切り変なものにしてしまう。
1990年代に普及し始めたパーソナルコンピューター程度の性能は、すでにスマートフォンが追い抜いているという事実。ピーピー夜中に通信音を出し続けたモデムなどというものは今では信じられないものとなり、当然のようにケーブルで接続されていた機器は今や当たり前のように無線で接続しあっている。30年前の夢は次々と姿を現し、今年生まれてきた子供たちには夢のような性能の機械たちが待っている。通信規格のG6がスタートの人々と、黒電話でスタートという人たちの間には、なんと激しい断絶があることだろう。身の回りの道具に関する理解の断絶は凄まじいものがある。
しかし変わらないものも依然としてある。料理や、ノートや筆記具、道路や自動車などだ。これは最初から道路・紙といった強固なインフラが整っていたからだろう。それゆえいつまで待っても空飛ぶ車は現れない。紙媒体もいまだに健在である。背後にはエネルギー事情に対する漠然とした不安があるのかもしれない。電気の供給が本当の意味で安定するまでは、紙媒体や空飛ぶ車(超電動の老路を走る自動車)などは、実現されないだろう。汽車が電化され電車になったところで、電気自動車は全く発展しなかった。2024年現在電気自動車が出現しているのは、ひとえにリチュームイオン電池の普及のおかげである。つまり道路というインフラと自動車、文字と紙というものは抱き合わせの技術なのだ。旧来の道路事情のまま自動車だけが電化されても、普及には程遠い。同様に紙媒体に変わる利便性を高めた媒体(加筆訂正・閲覧)が出てこない限り、書籍は紙媒体のままだろう。電子ブックの普及が伸び悩んでいるのは、まさに現在の電子媒体に欠陥がある・普遍性に欠けていると誰もが無意識に認識しているからではないだろうか。通電しなければ使えないものに、実は電気の供給に関する安心感がまだないこと、この事実に尽きると思われる。
料理は少し毛色が違って見えるが、これも生き物は外部から栄養と言われるものを取り入れなければ、その生命を維持できないと言われているゆえだ。通念が常識を産み、常識が無意識無関心をまた産んでゆくこととなる。絶対に必要だろうと信じられているものは、必要ゆえにその基本的な形態、方法を変えたがらないのだ。それはなぜか?それを変えることに対する不安が電気の供給同様に拭い去り切れないためだ。反面いくら変わっても人の方が変化に合わせる一群の存在がある。それは壊れる前提の事物である。または変化する可能性を最初から内包している事物である。つまり生存に関して密接に関与しない事物である。いわゆる便利なものダチのことである。
考えてみると電話の先祖は手紙である。さらに遡れば通信という括りでも、手紙の前は狼煙である。合図を送るだけならば狼煙が有効だったのである。一部では光の反射をもって合図を送り合っていたという推測すらある。基本的に合図と連絡・通信というものは似ているようで異なる存在なのかもしれない。合図には緊急性があり、通信には正確性が求められる。要するに受け取る側の想像力が勝り、より詳しい状況を求めたということなのだろう。となると送信側は常に危機に直面しながら、安全な場所にいる受信者に詳細な連絡を取らねばならなくなった、ある意味危機の分類が進んだ、あるいは直接的な生命の危機からはなれたところで、少し先の未来の出来事についてのやりとりができるだけ、知識を得て安全に前線のものが過ごせるようになったとも言える。そこには武具防具の発展というものが関与しているのであろう。身を守れる状態にある安心感が、少し先の危機を感知し、受信者に連絡をすることができるようになったのかもしれない。人の生き物としての不利を、道具によって補完し続けているわけだ。そういう道具に関しては、人は順応することを当然と信じて数万年を過ごしてきた。

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