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「沢田教一展〜その視線の先に」〜「戦争で最初に犠牲になるのは真実である」〜

「沢田教一展〜その視線の先に」
〜「戦争で最初に犠牲になるのは真実である」〜


ピューリッツァー賞受賞者として知られるアメリカUPI通信社専属カメラマン:沢田教一氏の写真展が開かれていると聞き、最終日の本日(2017年8月28日)、日本橋高島屋8階を訪れた。
会場は最終日とあって、多数の来場者で溢れていたが、ほぼ私と同世代の女性らが多かった。ベトナム戦争が激しさを増す1965年頃に青春時代を過ごしたご婦人達にとって、沢田教一氏の記憶はとても拭い去れない存在だったに違いない。
 

受賞作品:「安全への逃避」1965年9月6日ビエンディエン県クイニン北20キロ

 沢田教一氏がピューリッツァー賞受賞作品である「安全への逃避」(↑)と題する写真を撮影されたのは,1965年9月である。ピューリッツァー賞受賞の知らせは1966年5月である。高校2年生であった私は、この時の記憶にはなく70年5月にカンボジアで凶弾に倒れた時に報道され初めてその存在を知った。この受賞作品は、2015年3月ベトナムホーチミン市の「ベトナム戦争証跡博物館」を訪問した時に発見して以来の2年ぶりの再会である。
 
サブタイトルの「戦争で最初に犠牲になるのは真実である」は、展示会場冒頭の沢田の妻:サトによる企画主旨の掲示に紹介された文言である。誰の言葉かは記されていないが、この句に触れて直ちに戦争の本質を喝破する名言だと納得した。
戦争が「真実」の犠牲の上に成り立つと同様に、「戦争」へのプロセスも欺瞞そのものであったことは、日本の日中戦争、太平洋戦争の記録をみれば、明らかである。昭和恐慌から始まる戦時体制はまさにこの戦争のもつ最初の犠牲者である「真実」を覆い隠す為政者に追従した結果に他ならない。

「泥まみれの死」1966年2月21日 タンビン〜(解説要旨:戦果の一部としてM113兵員装甲輸送車に引きずられるベトコン兵士の死体)

 解説によれば、「戦争の真実」を当事者ではない第三者機関が報道できた最初で最後の戦争がベトナム戦争だったと言う。それはジョンFケネディ大統領が戦争の目的と意図(トルーマンドクトリン)を世界に知らしめるために「ジャーナリスト」への配慮を米軍と南ベトナム軍に指示したことによると言う。
この解説をみて、ベトナム戦争以降の戦争に関する報道は、確かに「真実が犠牲になって戦争が遂行されている」故にリアリティを欠くものだ。「真実」に向き合わないジャーナリズムは、正に戦争への最初の加担者であるとも言える。それは戦前のジャーナリズムの姿を見れば納得することができる。

〜1966年6月30日カンボジア国境〜(解説要旨:第一歩兵師団の通信兵。この長いアンテナは敵の目標となった。祈りを捧げてるようにも見える)

 戦争には必ず前史があり、独りでに起こるものではない。起こす者の存在が不可分である。戦争を起こそうとする為政者は、市民が真実に近づく術を遮断する。第一次以降の安倍政権が何を立法化してきたのかの歴史をみれば、それは自明である。「戦争で最初に犠牲になるのは真実である」というこの言葉は決して忘れてはならないと実感できた「沢田教一展」であった。
 
追記1:沢田教一氏について
1936年2月青森生まれ。小学校の同級生に寺山修司氏。45年青森空襲を体験。48年新聞配達でカメラを購入、54年青森高校卒業後早稲田を目指すが失敗。55年2度目の挑戦も失敗し、写真家小島一郎に師事し、米軍三沢基地写真店勤務でサトと出会う。56年11歳上のサトと結婚。61年サトとともに上京し、UPI東京支社に就職。65年2月休暇をとり自費でベトナムを訪問。65年7月に正式にUPIサイゴン支局に赴任。「安全への逃避」はその2ヶ月後に撮影されたものである。
 
沢田は、師事した小島一郎の影響もあり、故郷青森で普段の暮らしの姿を切り取り、とりわけ母と子供たちを好んで被写体に選んだという。ベトナムの被写体は、当然ながら戦闘場面だが、しかし暮らしそのものが戦場となった「母と子」をその視線から外すことはなかった。それは1945年自らに降りかかった青森空襲の体験を想起させるものであったに違いない。その視線が、あの「安全への逃避」のショットだったのだと思う。
 
その証左こそ、ピューリッツァー賞受賞後、戦場で出会った「母と子」の安否と消息を尋ねるビエンディエン県クイニン探索にある。彼は、ピューリッツァー賞の賞金(1000ドル:36万円)の内、2家族分6万円相当の現地通貨を携えて、再会を果たすのである。
 
追記2:サブタイトルについて
サブタイトルの「戦争で最初に犠牲になるのは真実である」という文言は、ハイラム・ウォレン・ジョンソン(アメリカの政治家、カリフォルニア州知事、連邦上院議員1917年 - 1945年)であるとする説がある。
また『ベトナムの泥沼から』でベトナム戦争に「泥沼」(Quagmire)という代名詞を定着させたピューリッツァー賞を受賞したニューヨーク・タイムズ記者ハルバースタムとの説もある。
さらにこの起源は、古代ギリシャの三大悲劇詩人:アイスキュロスの言葉の「In war, truth is the first casualty」であるという説もある。アイスキュロスは、ペルシア戦争でマラトン、サラミスの激戦に従軍し、戦争の題材にした作品を残したという。
 
「戦争にあっては真実が最初の犠牲者である」という言葉が原語かもしれない。

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