旧満州訪問記〜侵華日軍731部隊罪証陳列館
旧満州訪問記〜侵華日軍731部隊罪証陳列館
2015年夏に大連にある遼寧師範大学の短期留学時の週末に訪問した、哈爾浜(2泊3日)、長春・吉林(2泊3日)、瀋陽・撫順(2泊3日を2回)、旅順(日帰り2回)の経験をベースに、本年3月下旬から4月上旬に友人4人と11日間の旅程で旧満州への旅を企画した。その主要な目的の一つが、その際訪問し改装中で見学のできなかった哈爾浜郊外平房にある「侵華日軍731部隊罪証陳列館」への見学であった。ここでは侵華日軍731部隊罪証陳列館について紹介する。
731部隊は、正式名称を「関東軍防疫給水部本部」といい、その秘匿名称(通称号)である満州第731部隊に由来する。1936年4月23日、関東軍参謀長(板垣征四郎)により、関東軍防疫部の新設が提案され、36年8月に正式発足したと言われる。天皇の勅令による執行である。
1)731部隊の誕生と終焉
この部隊を指揮した部隊長は石井四郎という。731部隊を語るには、石井四郎を抜きに語れない。彼の履歴を通じて、731部隊の誕生と終焉を辿ってみたい。
石井四郎は、1892年千葉県加茂に生まれ、京大医学部に進学後、1921年1月近衛師団軍医を任官、中尉となり、1922年東京第一衛戌(えいじゅ)病院(=天皇と皇室専属)軍医となった。
1928年各国大使館、領事館を通じて、軍事医学の交流と称して、欧米20ヶ国を視察し、各国の細菌戦に関する情報を収集し、1930年8月陸軍中央に細菌戦開発に関する持論を展開し、1932年東京陸軍軍医学校に細菌研究室の開設を提案し、8月細菌研究基地の候補地選定のため、満州を訪問する。
1933年陸軍軍医学校に防疫研究室を開設し、防疫研究所と改称し、その後防疫研究所を東京から哈爾浜南崗地区に移転し、関東軍防疫班を設置し、背蔭河に細菌実験場を開設、人体実験を開始する。1934年背蔭河実験場を閉鎖し、1935年哈爾浜平房に再び細菌実験基地を選定し、36年6月天皇勅令のもと、関東軍防疫部長となり、平房に細菌実験基地の建設を開始し、大佐軍医となった。
直ちに細菌戦に使用する細菌爆弾、ノミを使うペスト菌拡散実験などを実施し、1940年8月に関東軍防疫部を防疫給水部に改称し部長となり、東京陸軍医学校教官となって9月、寧波などの細菌戦を指揮する。その後各地で細菌戦を指揮したが、42年7月軍費汚職で解任され、8月華北方面軍第一軍軍医部長に転任した。
1943年陸軍細菌戦戦略決定討論会に参画し、44年陸軍軍務局による米軍への細菌戦実施計画を立案する。1945年3月731部隊部隊長に再任され、中将となった。
45年3月4つの支部に対してノミを大量に繁殖し、対ソ戦に備えることを指示した。8月ソ連侵攻後、延命と証拠隠滅を計り、日本に逃走した。11月戦犯訴追回避のために故郷で自ら自分の葬儀を挙行したという。
46年1月アメリカ情報部により東京自宅で軟禁され、調査尋問を受け、石井四郎は、細菌実験と細菌戦の重要資料をアメリカに提供することを条件に731部隊全員の戦争責任の免罪を要請し、アメリカはこれに同意し、彼らは、アメリカの庇護のもとに置かれた。
2)石井四郎の細菌戦言説
以下、展示の石井四郎の言説を翻訳した。
・ペストの流行は、自然的な条件のもとで、容易に発生するが、人口的手法で流行させるのは、そんなに簡単ではない。感染源と感染媒体が不足する場合、流行を促進させることが必要であり、そのためには人体の生理的条件と生理的特性を明確に知らなければならない。人体に関する生理特性の条件を研究することによってのみ、人口的手法で感染の流行を引き起こす条件を知ることができる。生理特性の研究活動は、生きた人体を用いた実験が必要である。この種の実験を行う場合中国人が必要であり、すでに実験室の条件で行っているが、野外の条件下の実験も行う必要がある。このことは部隊の秘密中の秘密である。
・各列強はすべて、細菌戦の準備をすすめており、日本は、この準備を行わなければ、将来の戦争で、重大な困難にあうだろう。
・731部隊は、既に細菌戦兵器としてペストに感染したノミを使う研究を準備し、この方面でえた成果を、大規模に戦争目的に実施応用することが可能である。
・日本は鉱物資源や武器を製造するに必要な原料を充分にもっていない。従って、日本は新型の武器を探すことが必要であり、細菌兵器は、その中の一つである。
・生物兵器の製造は、コストを抑え、材料を省き、しかし計り知れない殺傷力をもつ。この経済危機に当たり、鉄鋼に欠乏する帝国日本にとって一挙両得の好事である。
・資源欠乏の日本が勝利するには、細菌戦以外にありえない。
・細菌戦の研究はAとBの二つの形態がある。A型はいわゆる攻撃型の研究であり、B型は防禦型の研究である。ワクチンはB型研究であり、日本国内においてできるが、A型研究は、国外でしかできない。
・日ソ戦は、すでに時間の問題であり、早晩避けがたい。今日的な武器は、唯一細菌兵器であり、日本の細菌戦はすでに自信のもてるものになっており、諸君ら軍医として、平時より自己の業務を高め、新しい科学知識を学んでおり、一端戦争が勃発すれば、直ちにこれを用いることができるはずだ。
・軍事医学は、治療と予防だけではなく、その目的は将に進攻にある。
・戦争が専ら実力に頼る時代はすでに過ぎ去った。科学は、物質的破壊を伴わずに大量殺人のできる有力な武器を発見したのであり、帝国は、直ちに「無居住区」(無人地帯)に実践センターの建設を始めるべきである。
・将来の戦争は、科学戦となることが必定であり、そのなかで細菌戦が最も重要である。従って、細菌兵器の研究に努力することが不可欠である。科学の発展には国境はなく、研究者は祖国のために積極的な研究に勤めなければならない。
・私は、細菌戦の研究製造に遅れは許されず、一日の遅延も日本の計り知れない後悔をもたらすものだと思っている。
・細菌戦は、戦略的な作戦観点から大変有利な進攻兵器である。
3)印象に残った731部隊の罪状
①731部隊の逃走
8月10日731部隊は関東軍とともに建設施設を破壊し、管理文書を焼却し、人体実験用中国人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人ら(「マルタ」と呼ばれた)を毒殺し、毒殺できなかった者は銃殺し、ガソリンで遺体を焼却し遺骨を松花江に投棄したという。
11日石井四郎は、専用機で日本に逃走し、本部部隊は関東軍に手配させた20両連結の15台の列車で、長春(旧新京)、安東、平壌、ソウル、釜山をへて、門司港に逃走した。ソ連国境に置かれた4つの支部は逃走時にソ連赤軍に襲撃を受け、捕虜となったが、これがその後731部隊の罪状を明かす資料 (ハバロフフスク戦犯法廷)となった。
②石井四郎の箝口令
8月10日隊員に残した石井部隊長の箝口令である。
一、731部隊隊員であったことを打ち明けるな
二、隊員間の相互の連絡をするな
三、731部隊と同様な性質の職業に就くな
(これは、同様な職種につけば、731情報が吐露されることを恐れたため。)
というものであったという。
③野外における人体実験
研究室における人体実験だけでなく、細菌搭載の爆弾を製造し、4キロ四方に十字架にされたマルタを装着して、上空から細菌爆弾を投下し、被曝及び細菌汚染状況など生理反応に関する調査を行ったという。
④細菌戦の実態
1938年8月、ノモンハン戦争において、感染症に冒された日本兵と満州兵が多数発生し、ハイラル陸軍病院に多数搬送する事態となった。その搬送患者を検証したところ、自らが撒布した細菌によって感染疾病した兵士が、約1300人余りに達し、731部隊軍医及び突撃隊員約40名が死亡したという。この細菌戦の戦果が軽微であったにもかかわらず、石井四郎は、表彰を受けたという。
注:陸軍軍医学校について
陸軍軍医学校は、新宿区戸山にある早稲田大学文学部キャンパスの裏にある国立感染症研究所、国立健康・栄養研究所などの場所であるが、戦前ここは陸軍病院などが集まる陸軍医学の拠点であったという。
1989年に陸軍軍医学校跡地にある感染研(当時は国立予防衛生研究所)などの庁舎建て替え工事現場から、人骨100体以上が見つかった。同区が依頼した鑑定では、人骨はモンゴロイド系の成人。銃創やドリルなどによる加工の跡があったという。731部隊の将来を暗示する実験があったのかも知れない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?