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卒塔婆小町 ㊱

『卒塔婆(そとば)小町』と言えば三島由紀夫の同名の傑作もある。前の記事の美輪明宏も絶品の『卒塔婆小町』を演じているし、他の役者のも観ているが、元ネタは能から来ているのだ。

作者は世阿弥(ぜあみ)だと云われている。三島由紀夫は素晴らしい才能の持ち主だと認めるが、世阿弥の存在はもっと大きいかも知れない。

物語;高野山の僧とその弟子が、都へ向かう途中で、乞食姿の老婆が卒塔婆(供養塔)に腰かけて休んで居るのを見て、罰当たりな事をしていると咎め、教化してやろうとすると、老婆は逆に僧を言葉でやり込めてしまう。
ただ者でないと悟った僧が、あなたは何ものかと問うと、老婆は「元は小野小町である」と正体を明かすのであった。

私は古典芸能が好きだと前に書いたが、その最初は落語から段々と広がり、古典落語をより深く理解したい為に歌舞伎、文楽も行ってみた。私は元々この手の世界と相性が良いのか、すぐに馴染んでしまった(というのは本末転倒か、落語の下地があったから苦もせず理解できたのだろう)。

けど、けどですね、私は遠回りしていたかも知れないのだ。古典芸能の源流はほとんど能からだったのである。『娘道成寺』も『船弁慶』も『勧進帳』も、ほとんどが実は、能をお手本として作られていたのだ。

世阿弥のお父さんは観阿弥(かんあみ・1333年~84年)と言い、猿楽の座長だったが、大衆娯楽であった猿楽に芸術性を加える事に成功し、京の醍醐寺で興行したところ大評判となる。

この時観に来ていたのが室町幕府3代将軍足利義満である。あのアニメ『一休さん』にも出てくる「将軍さまぁ~!!」です。この時義満17歳。

義満は観阿弥の芸に感銘を受けたが、それだけではない、父と共に来ていた美少年、世阿弥(当時12歳)に一目惚れしてしまう。以後、義満の庇護を受け、観阿弥、世阿弥の名は世に轟いたのである。

なんだか美輪明宏のイメージとダブルが、当時は男色は当り前の世の中であった。世阿弥は義満に愛され、当時第1級の教育も受けられるようになったのである。

ここら辺の知識は白洲正子の随筆に詳しい。白洲正子については別の記事でたっぷりと語りたいところだ、

私の能の知識はほとんど白洲正子の受売りだが、彼女は帰国子女で日本の文化を全然知らなかったが、まず能を習ったという変わった経歴を持つ。彼女の知識の核には能があり、含蓄の深さはそこからきているのだろう。

能は、当り前のように幽霊やら物の怪が現れる。それが昔の人の世界観だったのであろう。旅の途中で幽霊や、老いさらばえた嘗ての絶世の美女、小野小町が出てくるのだ。

そのような世界観を生かし、『葵上』『卒塔婆小町』を残した三島由紀夫はさすがだが、世阿弥が残したお宝は、まだまだ沢山眠っている筈だと思う。

能は凄いのだ、日本舞踊も基本は能からだという。

大衆芸能であった猿楽を能に高め、日本人の美意識を底上げしてくれた世阿弥の功績はいかばかりであろうか。

世阿弥がいなければ、歌舞伎も落語も、だいぶ詰まらないものになっていたかも知れない。

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