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大濠公園。夜。

水曜日の夜。これまで、私は仕事帰りにランニングの練習会に
参加することはほぼなかった。練習会があるのは家に帰るのとは逆
方向の公園。家に帰って、やるべきことがあるわけでもないし、
誰かが待っているわけでもない。けれど、わざわざ走るための服に
着替え、暑い中走りに行く気持ちが全く沸いてこなかった。

振り返ってみれば、ここ3年くらい、まじめに走ろうなんて、
少しも思わなかったような気がする。走るのは好きだが、そこに競争性が入ってくると、一気に嫌気がさした。そういう世界で楽しむにはレベルが
高すぎるし、そこで何を求めているのか、そういう疑問が先行し、
疲れた。

夜になっても熱気がひどく、気持ちがついてこなければ、こんな
暑い中、走ろうなんて絶対に思わない。公園につくと、そこには変わったようで変わらない風景が広がっているような気がした。思い思いのペースで走る人々。その中に紛れるだけで、ここに来て、ここで走ると、全てがチャラになるような気がした。仕事での気疲れや、精神的な疲労感、普段の生活の
中でのどうしよもない悩みなど、何ひとつとして解決するわけでもなく、良い方向に向かう兆しが見えているわけでもない。それでも、ここに来れば、
そんな日常から一瞬だけ、解き放たれたような気持ちになれる。

練習会のメンバーはすっかり変わっていた。私のことを一体どれくらいのメンバーが知っているのだろうかと思ったりする。当たり前だ。私がこの練習会にまじめに参加していたのは今から3年以上も前だ。転勤でここを離れた人もいれば、逆にここに来ることになった人もいるだろう。すっかり様変わりしたメンバーに紛れて、久しぶりに息をあげて走ってみる。

びっくりするくらいすぐに息があがり、とにかく、上半身がきつい。足の疲労の前に、心拍が追い付かない感じ。こんなに息を上げて走ったのは、いったい、いつぶりだろうか。こんなはずじゃなかった、という気持ちよりもはるかに、夢中で頑張れる瞬間がまた訪れたというか、自分でこの時間を掴みに来たことが幸せすぎると感じた。こんなにも必死になれる瞬間など、ここ数年の中でいったいどれほどあっただろうか。1周まわって、戻ってきたといったところだろうか。何も考えずに、ただ、必死に走る。そんな、シンプルなことさえ、気持ちがなければ、すぐにできなくなる。それを知ったうえで、ここに戻ってくると、あまりに新鮮すぎて、もう、言葉にならない。

速く走ることが全てとは言わないが、一生懸命頑張ることがシンプルに惹かれる。頑張ることが全てでもないと思うし、実際、自分自身も、ずいぶんさぼっていたので、そういう時間があっても、決して否定しない。何を頑張るのか、何にエネルギーを注ぐのか、色々な条件や環境、そして自分自身の気持ちがそろうことで、身体が動き出すのかもしれない。

練習会が終わる頃には、公園はすっかり暗くなり、生ぬるい風が吹く。仕事をしながら、こうやって練習会に参加し、また公園を抜ければいつもの日常
がいつも通りに始まる。それでも、私の気持ちはいくぶん新鮮だ。ここに来れば、走る仲間がいる。速かれ遅かれ、目標を持って練習会に参加する仲間がいる。自分の中の軸がぶれなければ、また、頑張ることができる。

余韻に浸るほどの時間もないし、そんなに速く走れたわけでもないのに、
シンプルに満たされた感じ。走ることは、こうやっていつでも自分を形作る。

また、練習会に行こう。全然付いていけない悔しい気持ちも、久しぶりに味わった。こんなもんじゃない、そんな、気持ちで、走り出し、風を感じよう。

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