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日記20-努力って何ですか

真人間です。

友達、います。最近5人まで増えて2人まで減りました。才能です。
ひとりは10年来の友達と思っていたのですが、通話中に「うちら最近(ここ数カ月)本格的に友達になったじゃん?」と言われハチャメチャな衝撃を受けました。うそでしょ。確かに連絡を取るようになったのはここ1、2年の話だけども。

それはまぁ、いいです。

その通話中に「自分(真人間)は努力したと思ったことがない」という話をしたんですよね。実際努力をしたことは無くて。「努力をしたこともないから挫折もしたことがない人生」と自分では形容しています。自己研鑽をしたことがない。なんらかの大会やコンテストに自主的に出たことがない。できるレベルのことしかしないから英検5級と漢検準2級しか持ってない。
友達から「アレは努力じゃないの?」と10年前の出来事を引っ張り出されたのですが、それも努力とは思えなかったです。お世話になった先輩が引退するときに色紙を手作りしたり、人のために二駅先の店にプレゼントを買いに行ったりするのは努力するとは言わないと思うんですよね。それに似たことだったので。
それはそれとして、色々挙げてもらっても「ああ確かにそれは努力だ!私は努力したことある!」って思えないのってなんでだろうって思いました。

ところで。『執着を手放して「幸せ」になる』という本を読んでいます。なぜなら執着を手放して幸せになりたいからです。それを読んでいたら、ある程度地位があって、人に褒められるのに、それを否定しまくる人が出てきました。親が厳しくて、親からの承認に執着していて、だから親以外から褒められたところで自分を認められないとのことです。

私もそうなのかもしれないです。いや、厳しいどころか放任主義だったし、愛されて育ったんですけど。
姉はかなりの孝行娘です。引くほど地元に帰らないインターネットダンゴムシの私にも優しいですし、子供がいて孫の顔を見せるという世間でのアレもやってのけていますし、なんならその子供にも子供がいるのでひ孫まで見せていますし、明るいですし、自分のお金で高校に行きましたし、ちょっとギャルっぽいですし、私と違って顔もよろしいですし、背も高いですし、ファッションやメイクに興味がありますし、地元に住んでいて母親ともしょっちゅう連絡を取り食事をしたりしていますし、母親の再婚相手にも優しかったです。あんまり話さないので知らないんですけれど。とにかく尊敬できる人です。

毎日姉のことを思い出しているわけではないし、姉も「なんか、『妹』とかいうの、居る」という感じだと思います。だから私が執着しているとしたら姉というかたちを持った孝行娘です。私がするべきと分かっていて目をそらしている努力、それは親孝行です。

母親にあれこれ言われて歯をギリギリさせながら父親に形式的な孝行というのをやりました。手紙を書いたりするやつですね。父親は一回も読まずにそのまま死んでいったそうです。母親とも気が合いません。ドがつく陽キャなのです。姉がその性質を受け継いでいます。その家系図に突然変異として生まれてきたインターネット張り付き陰キャと気が合うわけがありません。
私ももういい歳ですから、誕生日におめでとうの一言くらいは言うわけですけども、プレゼントは送らないです。いらないんです。親は。本当にいらないんです。食べ物は血糖値を気にしているから要らない、花は手間がかかるから要らない、ブリザードフラワーは場所を取るから要らない、酒は飲めないから要らない、まぁなんでも要らないんですね。
小さいころ母の日にスーパーでカーネーションがいくつか入った籠を買って渡したとき「母の日はカーネーションが高い日なのになんで買うの」と怒られたのでプレゼントをあまり渡したくないというのもあります。なぜかデリカシーの無さだけ遺伝しております。

子供を産んで、盆と正月には帰省して、親と、もっというなら姉とその子供とその子供とご飯を仲良く食べる。近況を話してお互いを労う。
私にとってこれだけが努力と呼べる行為ですが、そんなことのために(居ない)子供を作るのはさすがにサイコが過ぎますし、というかあまり子供が欲しいとも思わないですし、親との会話はバチクソにつまらないですし、姉とは緊張して一言二言しか喋れないです。

子供を産むのは置いておいて、朗らかな家庭というのをやってみるのは自分次第です。やるしかないんでしょうか。これをやったら私って人生で努力したことになるんでしょうか。

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