見出し画像

雲仙温泉に伝わる二つの「お糸地獄」伝説

雲仙温泉に伝わる二つの「お糸地獄」伝説

雲仙温泉「湯にも地獄の物語」ナイトツアーのシナリオを書いているとき、「お糸地獄」の由来について、雲仙地獄にある石碑の内容を参考しようとしていたが、ツアーガイドの女性から「実はこれちょっと違うんですよ」と耳打ちされた。

そこで島原市の市史を調べてみると、当時の島原城下の人々を震撼させた「お糸事件」の全容がわかってきた。それはやはり石碑に書かれている内容とは少し違っていた。これはおもしろいと思い、ツナーシナリオに採用した。

以下、ツアーシナリオを補足するために制作した「湯にも地獄の物語」ポケット瓦版に載せた原稿である。

お糸地獄の石碑

世に妖しきは美しき女の“恋”の執念 島原お糸事件、事の顛末さあさあ、みなさまお立ち会い。当ツアー「湯にも地獄の物語」にて、語り部が語りおります「お糸地獄の由来」につきまして、その端緒となりました「島原お糸事件」の顛末をばご紹介いたしとうございます。

「湯にも地獄の物語」ポケット瓦版

ご当地雲仙地獄の案内板によりますれば、〈その昔、島原城下でたいへん裕福な暮らしをしておりましたお糸が夫に隠れて密通をしたことが露見し、進退に窮したお糸が情夫と共謀し夫を殺害した事件〉となっております。そこで、捕らえられたお糸が処刑になりました頃に湧き出でましたる地獄を、「家庭を乱すと地獄に落ちるぞ」という戒めを込めて、地元の人々によって「お糸地獄」と名づけられたとのことでございます。

ところが、かまびすしい島原雀の言の葉によりますれば、然(さ)にあらず。ちと事件の様相が違ってくるのでございます。つまり、〈時は慶応三年、全国をふれ歩く薬売りの行商人文助が十六歳の美しいお糸を島原城下で見初め、お糸のために家を建て妾として囲っておりました。が、文助の留守中にお糸が女房もちの湊の庄兵衛と浮気をして、のちに妻と離縁した庄兵衛と所帯を持ってしまいます。さあこれに激怒したのが行商人の文助。恨みつらみの思いのたけを手紙に託しお糸宛に差し送ります。その手紙を読み返答に窮したお糸が、夫と妹婿の柳川の仙次郎と計って文助を呼び出し殺害した事件〉ということなのでございます。

さてさて一世紀半の時を経て、今年令和二年四月四日は、お糸と湊の庄兵衛と柳川の仙次郎が明治三年に処刑されてからちょうど150年目に当ります。今も昔も世に妖しきは美しき女の“恋”の執念。それに翻弄される愚かな男達。現代ならばワイドショーも文春砲もびっくりのドロドロ「午後の奥様劇場」なのでございます。

〈島原お糸事件〉一口メモ
其の一 「お糸が墓」と呼ばれる島原市の今村刑場跡
お糸が処刑された島原市の今村刑場跡は、お糸の処刑(獄門にかけられさらし首)を最後に閉鎖されたので、「お糸が墓」とも呼ばれております。この刑場は禁教時代に外国人神父や日本人の潜伏キリシタンが処刑された場所でもございます。

其の二 のぞきからくりの演目にもなった「島原お糸事件」
南島原市深江町の「のぞきからくり保存会」の演目の中に「島原お糸事件」があり伝承されております。事件を描いた絵やお糸の唄もあると申します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?