昔はどんな子どもだったのか #1 幼稚園小学校編

書く習慣 Day5「昔はどんな子どもだったのか」

時期による。まーじで時期による。

だから、最初から話すことにします。

幼稚園のときのわたしは、やんちゃな子でした。



無口といえば、無口でした。

いやなことを言われたら、語彙力がなくて、言い返せませんでした。

だから、暴力で解決していました。

ひっかいたり、ひっかいたり、ひっかいたりしていました。

3歳から、たくさんの習い事をしていました。

ピアノ・英語・絵画・バレエ・水泳・体操

幼稚園は、私立で、教育熱心な園長先生がバックについていました。

幼稚園に「放課後教室」というカリキュラムがあり、追加料金で習い事ができるサービスでした。全部やっていました。

水泳と体操に関しては、市民体育館と市民プールでレッスンがありました。市民だと、激安価格でレッスンが受けれます。大阪府まじでありがとう。

やるのが当たり前だと思って習い事に通っていました。

母の話によると、赤ちゃんのときから、世話のかからない、いい子だったそうです。けど、言葉が遅かったようです。お話はできることはできるけど、あんまり話したがらない子どもだったそうです。

子供ながら「それって、こどもの成長が遅れてるって思って不安にならないの?」とおもいますが、母のメンタルは強く、意思疎通はばっちりできたから、なにも問題に思わなかったそうです。
年中さんになってから、言葉を話すようになったそうです。

あと、なんだろうね。

当時はモーニング娘が流行っていました。わたしはよくモノマネをしていました。アイドルのダンスを真似して踊ってたり、千と千尋の湯婆婆ゆばーばのモノマネをしていました。最初は母にだけ見せていました。

自分からする機会はあまりありませんでしたが、「やって!」といわれたら、必ずやりました。

その特技を母はいろんな人に紹介しました。親戚に披露したり、幼稚園の先生に見せていました。まわりの大人はそれをみてニコニコしていました。

わたしは、いい子だったので、幼稚園の先生に人気でした。

けど、周りよりも劣っています。
2月生まれで早生まれだからです。背の順では、きまっていちばん前でした。

おもらしはするし、飲み物はこぼすし。

そのたびに幼稚園の先生にちゃんとしつけてもらっていました。

なんか、我ながら手のかからないまっとうな子供でした。

年長さんに上がったタイミングで、ある日幼稚園の先生から母に「小学校受験に興味はありませんか?」と申し出があったそうです。

その日から、わたしの人生が変わりました。ピアノ・英語・絵画・バレエ・水泳・体操に加えて、3つの塾に通うようになりました。

わたしにとって、土日は、休みの日ではありませんでした。

年長さんのときの自分がいちばん賢かったんじゃないかな?っておもっています。育ててくれた母に感謝です。お金を出してくれた父に感謝です。

幼稚園の「放課後教室」カリキュラムに「おけいこ」が加わりました。その「おけいこ」は園長先生の推薦でしか入れないクラスです。

小学校受験対策にいろいろしました。ペーパー問題・絵画制作・運動・リズム・口頭試問・指示行動・グループ行動・面接練習など

模擬試験として、受験テストをなんども受けさせられました。あまりにも模擬試験の数が多かったので、本番の試験と模擬試験の記憶があいまいです。

試験の中で、「他の受験生と仲良く仲間外れにせずに遊べるか?」という能力も審査されます。試験に合格するためにわたしは、わざわざ知らない"おともだち"に話しかけて、一緒に遊びました。相手も試験に合格したいので、一緒に遊びます。わたしとしては、試験という概念を越えて、遊びに夢中になることが多かったので、試験官の「終了です」の合図が嫌でした。もっとあそばせてくれ。

小学校受験に合格しました。

地獄のはじまりでした。暗黒期です。

小学校は苦しかったです。友達は少なかったです。
成績は常に最下位でした。

他のクラスメイトは「他の受験生と仲良く仲間外れにせずに遊べるか?」という能力に秀でいていました。なので、いじめはなかったです。

いじめがなかったのが、せめてもの救いでした。

すべてが最悪すぎてうまく笑えませんでした。
写真をとるときに笑って?と言われても笑えないので、無理やり口を横に広げていました。
あの頃を思い返すと、鬱状態だったんだとおもいます。
すべてが無気力でした。

2か国語3か国語を話すクラスメイトは普通にいました。クラスの5人くらいは数学オリンピックにでます。夏休みの自由研究では、「文部科学大臣賞」をとる子がいます。将来の夢は「弁護士」「外交官」「医者」「国連で働きたい」と答える子が大勢いました。ががががが、外交官って。確実にご両親の影響でしょう。まわりが化け物しかいませんでした。わたしも勉強頑張ってるつもりなんだけどなぁ。

5年生は、毎日泣いていました。ある女の子にターゲットにされました。女の子の名前をあっちゃんとでも呼びましょうか。わたしにとっては、はじめてできた親友があっちゃんでした。あっちゃんは、いつもわたしを叱ってきました。叱られた理由は、挨拶です。「おはよう」をしっかり言わないと怒られました。適切なタイミングで「ごめんね」を言わないと怒られました。「ありがとう」をことあるごとに毎日毎日言わないと怒られました。わたしは、あっちゃんから社会性を学びました。毎日大泣きしていました。

いままでは、本当に申し訳ないと思ったときにしか「ごめん」って言わない人間でした。しかし、ごめん思わなくても、「ごめん」ってちゃんと口にしないといけないルールがあるんだね。と学びました。

あっちゃんはクラスでいちばん可愛い女の子でした。あっちゃんは、子役でした。当時AKB前田敦子の主演映画がありました。その前田敦子の子供役がわたしの親友あっちゃんでした。
あの前田敦子です。あの前田敦子と顔が似ている。さらに演技力もあるということで、あっちゃんが選ばれたのでしょう。

AKB前田敦子とあっちゃんのツーショット写真をガラケーで見ました。まじですごすぎだろあっちゃん。

あっちゃんは、大人の世界に揉まれてオーディションを勝ち取ったのでしょう。普段から、大人に教育されてきたのでしょう。その教育のあてつけにわたしを指導していたんだと思っています。いいストレスのはけ口だったんだと思います。

あっちゃんは、他の友達に「なんで伊藤翼ちゃんとずっと一緒にいるの?」と聞かれた時に「翼と一緒にいるとわたしの可愛さが際立つでしょ?」と答えたそうです。あっちゃんは、ドラマの世界に生きていました。

あっちゃんはよく私と成績争いをしていました。争いというか、あっちゃんが私の点数を教えるように催促してきました。点数をみて「わたしは仕事してるのに、その時間翼はいったいなにをしてるの?点数低すぎない?だっさ。」と言われたことがあります。

わたしは、ゲームと読書が好きでした。家で、勉強はすることにはします。ちゃんと母の言いつけを守って宿題をしてり、勉強をします。しかし、まわりのクラスメイトの頭がよすぎて、もうダメでした。
努力しても努力してもダメでした。このときの母の気持ちを思うと、もう、なんか。申し訳ないです。

毎日わたしが学校で泣いているのをみかねて、担任の先生が「もう、あなた達距離をとりなさい」といわれました。あっちゃんは、分かりましたと答えました。わたしも従いました。

そこからは、少し心が楽になりました。

クラスメイトは4月5月6月生まれが多かったです。逆に私のような早生まれの子どもは学年に5人いるかいないかでした。
体力測定のときに、身長を測ります。私は毎回背の順番で一番前でした。学年平均と全国平均が表示されます。毎回、学年平均が+5cm高かったです。走るのも、周りは速かったです。
学年平均と全国平均の差がかなりあったことを覚えています。なにもかも私は負けていました。
父は、「早生まれなのだから気にするな。一個下の学年と比べてみろ。国が違えば、お前はそっちに振り分けられることもあるんだから」と言っていました。たしかに、一つ下の学年に紛れると、私の背の高さは普通です。父の言葉で自殺をすることはありませんでした。ありがとう父。

クラスメイトの全員が4年生の2月から塾に入っていました。
母もそれに従って、私を塾にいれましたが、どうもダメでした。ダメすぎてダメでした。授業のようすを母に伝えます。何が分からないのか分からない。もうだめすぎてダメだと。宿題も母といっしょにやります。母は、学校の授業の宿題もみてもらっています。だめだね。となりました。小学校と塾では、勉強の種類が違いました。小学校での成績も、もちろんあがりませんでした。最下位のままでした。母ごめんね。お金かけてもらったのに。本当にこのときの私がダメで申し訳ない。

学校の授業は、なんか特殊でしした。
他の学校のところからエライ先生がきて、よく研究授業をしていました。あとで論文になるやつです。なんか、ふつうの学校と進度がかなり違いました。

わたしはなぜか理科が好きでした。けど、成績はダメダメでした。やることはやってるのに。授業が謎すぎて分からなすぎて、1回だけ昼休みに質問に行ったことがあります。なんで自主的に質問なんかしたんだろう。えらすぎだろ自分。
理科の先生は丁寧に教えてくれました。授業ではわかりませんでしたが、1対1だとすごく分かりました。同じ説明だったのに。理解できました。その時のテストは、成績がよかったです。あの一瞬のときはなんか嬉しかったね。

ある日。数学の授業でのこと

「うーん。ちょっと時間ないんだよね?授業をできれば飛ばしていきたいんだけど、じゃあ…はい。このひし形の面積の求め方の公式、どうせみんなのことだから既に習ってますよね。この公式はじめて見るよって子は手を挙げて?」と言われました。

ひし形の面積は、授業ではじめて扱う問題です。

知りません。手を挙げました。わたしだけが手を挙げていました。

先生は「あ、そっかそっか。じゃあ、丁寧にいきますねー」

となりました。

その次の週。数学の授業。

「うーん。ちょっと時間ないんだよね?授業をできれば飛ばしていきたいんだけど、はい。この平行四辺形の面積の求め方の公式、どうせみんなのことだから既に習ってますよね。この公式はじめて見るよって子は手を挙げて?」

わたしだけが手を挙げます。

途中で、男子が一人手を挙げました。
隣の男子にこづかれています。
「いや、お前塾でこれ前やったじゃん。」
「僕忘れちゃったから、もう一回習っときたい」

惚れさすな。ボケ。

気を遣って、他の子も手を挙げはじめました。
さすが、「他の受験生と仲良く仲間外れにせずに遊べるか?」の試験を通り抜けたクラスメイト達です。あまり関わりのない、孤独で、最下位だった私をかばってくれました。

嫌われているわけでもないけど、孤独な小学校生活でした。

わたしは手がかかる子供でした。
4年生は、塾で挫折し、
5年生は、公文式を取り入れ、これがいい感じでした。基礎を固めることができました。
6年生からになっては受験勉強に集中して、母と一緒にずっと問題を解いていました。母ありがとう。まじでありがとう。

わたしは、「小学校のクラスメイトが受験するところにいきたくない」とよく言っていました。
中学校受験は、レベルを下げて偏差値の低い学校を狙いました。偏差値50の学校を受験しました。
うまくいきました。

中学生になりました。
はじめの定期試験で学年1位をとりました。
はじめの代々木模試で全国偏差値70をとりました。

暗黒期はおわりました。

あとがき

『愚物語』という小説で、キャラが5分裂する話がでてきます。本当の自分が一人いて、あとの4人は過去の自分です。キャラがまったく違う5人格がでてきます。その話はアニメ化されていて、つい先日がキャラ5分裂回の放送日でした。視聴したばかりだったので、わたしも同じことをやってみたいと思いました。
わたしの過去の人格は「同じ人間か?」とおもうほど、おもしろいくらいに性格が違います。変化を重ねて成長してきたのでしょうね。これからもいい方向に変わり続けていきたいです。
心理カウンセリングの初回では、まずはじめに「あなたの幼少期を教えて下さい。どんな子供でしたか?」からはじまり、小学校、中学校、高校、大学と自分のエピソードを話す機会が与えられます。当時は、なにも用意をしていなかったので、うまく答えられませんでした。答えたけど、別に、それがいちばんのトピックスだったかな?とおもうと違うかんじがします。
ちょっとじぶんの記憶を整理したいです。
過去の自分を4つ分書きたい欲があります。まずは過去の人格1人目です。内気な女の子の話にしたかったけど、うまく感情を入れ込めませんでした。できごとを羅列しただけになりました。むずかしいね。
小学校のクラスメイトとは成人式の同窓会で集まりました。20歳でそのとき大学生です。お互いの大学をまず名乗りました。半分が国公立その半分が早慶でもう半分が医学部でした。関関同立は私くらいでした。最終学歴も最下位って感じ。場違いすぎます。本物の天才組と6年間一緒でした。だから、「天才だね」と褒められても、「まぁ、本物の天才を知ってるから素直に喜べないんだよなぁ」となります。
最後に偏差値の話を出しています。中学生の偏差値なんてアテにならないんで、数字にあまり囚われないでください。


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