父
母の日が近づくと父を思い出す。
23年前の母の日に、父は突然逝った。
沖縄出張から帰宅
当時、仕事をしていた私は連休明けに沖縄に仕事で行くことになっていた。
そのために連休中にまとめて仕事をしていた為疲れからか?現地で倒れたのだ💦
夜中に腹痛を起こし、沖縄の病院に搬送され🏥急遽自宅から夫が来てくれた。
疾病名は急性憩室炎!
大事を取って点滴を受け、医師の治療は三日間の絶食入院だった。
しかしグループ病院が自宅の近くにあったので、特別に配慮してもらい福岡に帰ることができたのだ。
思えばその時に父親にかかりつけのクリニック(昔からの信頼できる医師)に、夜にでも診てもらえるか?尋ねてもらった私だった😆
父の心配
もちろん父親はそのクリニックに先回りして待機していた、
診察を受ける私を待ち、
改めて医師の診断が急性盲腸炎と下されたので、
ひと安心してそれぞれに帰ってきたのが母の日の前日。
父の心情を配慮する余裕もなかった私💦(涙)
父は自宅に帰り、心配して待つ母に「大丈夫だった、心配したけど大したことなかったよ」と一言言ったらしい。
両親はいつも近くに嫁した私を心配しながらも頼りにしてたので、内心ホッとしたのだろう。
この事は後から母親に聞いたのだが(涙)
翌日には帰らぬ人に
案の定、父は翌朝早く私の様子を見に来てたらしい、
あとから夫が父が我が家の前にいた姿を見かけたと言っていた。
その日は5月の第二日曜日、
ご存知母の日、
午後には市外に住む妹と二人、
実家の母の祝いに改めて訪れて、
父も私が元気になった姿に目を細めてくれた。
当時私は49歳、父は78歳だった。
互いに元気な時は似たような性格だから反発しあってたけど、やはり実の親が子を心配してくれるのに内心嬉しくもあった私だ。
夕方早めにそれぞれの嫁ぎ先に帰る私らに感謝の言葉をかけてくれた両親、それが最後になろうとは💦💦(涙)
夜、夕飯の後片付けをしてる時に母親からの電話📞
「お父さんが!!」
取るのもとりあえず、夫と二人で駆けつけた私が見たのは、
浴槽に沈んでる父の姿!
私は119に!
夫は父親を引き上げて人工呼吸!
その後に隣家に駆け込んで父の急変を知らせてSOS。
救急車が来てその車に同乗した私は、何が何だかサッパリ🌀🌀💦
精一杯の治療虚しく、
その日の夜に父は逝ってしまった💦
慌てて救急車に乗った私、
財布も携帯も持ち合わせてなく、
その病院におられたスタッフに
硬貨を借りて自宅に電話した(涙)
頭の中には(サドンデス、サドンデス🌀🌀)という言葉が回ってたのだけは覚えてる。
憔悴しきった日
猪突猛進という言葉があるが、
亥🐗年生まれの父はまさしく干支どおりの性格、人生だった気がする。
母とのエピソードを綴った投稿があるが、話せばキリがない。
兄の挨拶
四人の子ども、揃って父を送り出し、初七日で親戚の前で挨拶をした。
大学を出て遠い地で養子になってた兄が遺族代表で挨拶したのだった。
今は私たち遺族は憔悴しきってます、
なぜ急死したのか?
なぜ自分たちに看病させる時間をくれなかったのか?
なぜ病気がちの母を追いて先に逝ってしまったのか?
なぜ?なぜ?と悔いてます(涙)
でも、逆に父は私たちに子ども孝行をしてくれたんだと思うことにします。
今は、せめて二〜三日看病できてたらと悔やんでる私らですが、
それぞれに嫁ぎ先の親がいる身です。
命が助かってもズーッと寝たきりになってたら、そのうち誰が面倒見るんだ?と諍いを起こしてたかもしれない(涙)
父は私らが仲違いしないようにサッサと逝ったんだろう(涙)と。
当時、兄の言葉は冷たいと思った私でしたが、月日が経つにつれ、兄は敢えて先のことを案じてくれたんだろう、我が身も養子に行ってる身、弟に全て任せるではあまりにも無責任だろうと長男のプライドだったんだろうと。
※奇しくも父は戦争でシベリヤ捕虜時代、三波春夫氏と同じ収容所だったらしく戦後、彼がドサ回りで浪曲師として巡業時代も、青年団としてついて回った事をよく聞かされてました。
大好きな歌い手だと常々彼の十八番の俵星玄蕃を歌ってました。
その三波春夫氏が亡くなって一ヶ月後の父の死去でした。
あとがき
翌年、父の一周忌を待たずして元々病気療養していた母も逝きました🙏
母の時は妹や私たちが仕事の合間にせっせと介護しながら協力していたので、それなりに納得のお別れでした(涙)🙏
多分、父が今も天国で面倒見てくれてるだろうと思っています🙏
長い回想にお付き合いくださり有難うございます🙏
皆さんもそれぞれのお母様に今日は感謝の日ですね💓😊
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