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水星の魔女23話:グエル・ジェタークの「赦し」について

初めまして。ジェターク兄弟が推しです。
各所で話題の機動戦士ガンダム「水星の魔女」。筆者はガンダム初見勢なのだが、とても面白い。いや正直なところシーズン1の最終話でメンタルをズタズタにされたのだが、それでもなお面白く、なんだかんだ最終話付近でリアタイを始めた。まんまと。
冒頭に書いた通り筆者はシーズン1からジェターク兄弟、とりわけグエル・ジェタークを推している。「持てる側」の人間であったがゆえ第1話からありとあらゆるものを奪われ続け、果てには敬愛する父親まで殺めてしまうという転落人生っぷりに彼が報われる日は来るのかと固唾を呑みながら見守ってきたわけだが、23話でその答えを得たように思うので、頭の整理として書き記しておきたい。
なお、ジェターク兄弟推しの脳で都合よく解釈しただけなので全然異論はあるだろうと思う。兄弟推しのオタクが何か言ってんなぐらいの生温かさで見守っていただきたい。

23話、兄弟対決。よりによって最終決戦の場に飛んでくる奴があるかと誰もが言いたくなるが、結論から言えばグエル・ジェタークが救われるのはこの前でも後でもあり得なかったので、こと「グエル・ジェタークの救済」一点を追求するのであればラウダがこのタイミングに割り込んできたのは最適解だったと言うほかない。
ただ、今話は(尺的な問題や誤解されやすい要素もあり)グエルの心情が特段台詞から掴み難い。
その中でも特に難解なのが、ラウダにコクピット付近を貫かれた直後の「俺はもう逃げない」という台詞である。この後に「父さんからも、お前からも」と続き、しかも脱出できる余力がありそうに見えるのにその素振りも見せず死を覚悟しているため、一見「親殺しの罪から逃げない(自分が父を殺したことへの罰として弟が自分を殺すのならそれを受け止めて死ぬ)」という意図だと受け取れてしまう。
だがしかし、そうなるとどうしても前後の描写と整合性が取れない部分がざっと四点ほど出てくるのである。
一点目。致命的な問題として、その意図でグエルが死亡した場合、今度は弟が「兄殺し」の罪を被ることになる点である。自分があれだけ苦しみ、拒絶を恐れて肉親にも打ち明けられなかった凄絶な罪を、果たして(仮にそう弟が望んでいるように見えていたとしても)進んで弟に被せようとするだろうか? しかもこの台詞の直前、ラウダはグエルに向かって「逃げて、兄さん」と懇願している。どう見ても本人は兄への傷害を是としている様子ではないのに、あえてその言葉を無視するのは強烈な違和感が残る。
ニ点目。一点目の問題にもかかってくるが、この台詞の前にグエルは弟の前で今まで誰にも見せてこなかった本心を吐露している。「父さんのこと、皆が、おまえが許してくれなかったらって……」と。この弱音は、仮にグエルの視点から「ラウダは自分を許してくれなかった(だから自分を断罪している)」と見えていた場合、恨み言めいた意味を持ってしまう。それを慮る余裕がないほど精神的に限界だったのだと理解できなくもないが、弟の凶行を止める抱擁と同時に吐き出されるにはこちらもやはり違和感が残る。
三点目。この後爆発して死ぬところだったグエルをフェルシーが凍結弾で止めてくれるわけだが(疑いの余地なく今話のMVPである)、断罪による死を「逃げずに」受け止めるつもりでいたのならこの行動は余計な横やりになってしまう。しかしグエルはそれを咎めるどころか安堵めいた息を吐き、あの戦闘を「兄弟喧嘩」と称するフェルシーに「そうだな」と同意している。あの戦闘が罪と罰の裁きの場であったという認識であるならば、やはり温度差が生じるシーンである。
四点目。そもそもラウダは徹頭徹尾「兄の」「父殺しの罪を」罰するとは一言も口にしていないのである。どう見ても精神的に限界を突破しているため論理もへったくれもあったものではないが、ラウダは一貫してグエルが父親を殺した件そのものに関して彼に責任を問うておらず、「ミオリネに償わせる」「自分が全部背負う」と(正しいかどうかは別として)他所に責任を逸らしている。またこれに関してはグエル自身が「違う! 聞け、ラウダ!」とラウダの誤解を解こうと(責任を自分に戻そうと)しており、ここから(たとえ狂乱状態で刃を向けられたとしても)「ラウダが父殺しの罪について自分を罰したいと考えている」という思考にシフトするかと言われると疑問が大きい。
以上四点を総合して考えるに、彼の言う「逃げない」という発言の主旨は恐らく別のところにあったのだろうと考えられる。

では、その主旨は何か。
ここからは大分推論が強くなるが、これは恐らくラウダが初手に放った台詞である「だったら殺して止めなよ、父さんみたいに」にかかってくるのだと思われる。
視聴者にもグエルにも大層なインパクトを与えたこの台詞であるが、これは(ラウダ本人はそうとわかっていなくても)非常に重要な意味のある言葉である。
何故か。
それこそがグエルにかかった最も重い「呪い」であり、この戦いで越えなければならない問題であるからだ。

言うまでもないことではあるが、敬愛する父を殺した事実は、彼をPTSDに陥らせるほどに深刻に心を苛んでいる。
彼は(自分の息子だとも知らずに)相手を殺すつもりで攻撃したヴィムを「反撃(攻撃、殺害)」という形で止めてしまった。もちろん不可抗力であるし、正当防衛でもあるのだが、そういった言い訳を逃げ道にできるほど彼は器用な男ではないのである。
「俺が死ねばよかった」と己を責めて茫然自失となるほどの呪いであり、また当然喪われた命が取り戻せるわけもないため、これに関する自責の念を治療ないし緩和させることは相当な困難を極める。

「だったら殺して止めなよ、父さんみたいに」
ラウダのこの言葉は、この極めて困難な命題に答えを示す投げかけであるように筆者は考えている。
この台詞は、グエルにとって、この戦いが父を殺してしまった戦いの再演であることを強く定義付けた。言葉では止まらず、圧倒的な暴力でもって自分やその後ろにあるものを傷つけようとする肉親との戦い。しかも今回は相手が最初からわかっている上、防戦に徹したとしても相手が勝手に命を削っていく。
かつて過ちを犯した環境そのものに直面する。恐らくグエルにとっては想像を絶するほどの痛みを伴う場面であったことだろう。
しかし彼は、そこから「逃げなかった」のである。かつての過ちを繰り返さず、自分に刃が向けられても、攻撃ではなく抱擁でもって凶行を止めた。
それはかつて彼が本当は成したかったと思っていただろうことで、叶わなかったことで、ラウダが凶行に走らなければ本来有り得なかったあの日の再演。その罪の意識を完全に拭い去ることができなかったとしても、「同じ場面に直面したとき、自分が正しいと信じる行いができる人間である」と自己を再定義できたことは、親殺しの呪いにずっと苛まれてきたグエルにとって、ささやかで、しかしとても大きな自分への「赦し」になったように思う。
それが結果的に自分の命を代償にする行為だったとしても。

グエル・ジェタークという人間は、ラウダが評する通り高潔で傲慢な人間である。
弱さを見せず抱え込み、自分だけで完結しようとする。弟や周囲からの拒絶を恐れる心や、死ねばよかったというような破滅的な気持ちを、(恐らくは生来の義務感の強さやオルコットの「死んで楽になれると思うな」といった言葉によって)「役割がある限り生き続けて償わなければならない(シャディクにそう示したように)」という強固な意識でもってずっと無理やり押さえつけてきた子供でもあるように思う。与えられた役目がある限り、彼はその役目を放棄しかねない行動を取ることはできなかっただろう。
だから、ラウダが殴り込むのであれば「ここ」しかなかった。ホルダーの地位やミオリネの相棒としての立場をスレッタに譲り渡し、データストームの壁によって最終決戦において浮いた駒となったこのとき。ほとんど全ての荷物を肩から下ろし、ただの「グエル・ジェターク」として戦える最初で最後の戦い。

一部結果論ではあるが、ラウダ・ニール、もといラウダ・ジェタークは、そのタイミングを間違えなかったのだと言えるだろう。グエルが自分自身を許し得る唯一のチャンスに飛び込み、再演の場を作り、彼の致命傷になりうる言葉(父殺しに関して彼自身を詰まる言葉)をただの一度も口にしなかった。大局から見ればただの愚かな行いと言う他ない(し、その行為の報いはその兄の実質殺害未遂という重い形で返ってきている)が、彼は文字通り命を賭して、大切な兄が自分を赦すための機会を与えたのだろうと思う。
そうして自分を赦すことができたから。だからグエルは、ずっと誰にも言えなかった弱音を吐露することも、自分に許すことができたのかもしれない。
かつてラウダが見てきた、幼い日の柔らかな少年のように。

では何故その気になれば脱出できただろうにしなかったのか、という問題に関してだが、先述の通り彼には「死ねば良かった(しかし役割がある限りは生きて償い続けなければならない)」という意識が少なからず刷り込まれており、それが(弟を守るという本人的には最後の役目を果たした安堵感から)能動的にしろ受動的にしろ作用して腰を据えさせたような趣がある。(こちらに関しては考察材料が少ないので妄想の域を出ないが)
恐らくではあるが、彼としては「自分が弟を守った(その結果自分の命が消費されるがそれは自分の問題)」ぐらいの認識であり、客観的に見て「弟が自分を殺した(※未遂)」状態になっていること自体を認知できていない可能性があるので、その辺りは最終回で是非存分に泣かれ怒られてほしい。マジでフェルシーに感謝しろよな。ジェターク社のエントランスに銅像建てな。

グエルは助けられたシーンの最後に「そうだな、本当……笑えないな」と言いつつ笑うのだが、その声が本当にどこか吹っ切れたような、穏やかで嬉しそうな声音なのである。
初見の時は弟に殺されかけておいて!?(ラウダ今これえらいメンタルになってるけど!?)と感情が呑み込めずひっくり返ったものだが、これが「グエルが自分自身を少しだけ赦すことができた後」のシーンだと思うとその声音が非常に趣深い。
23話の長きをかけて彼は、彼自身の善性と努力、築いた絆、そして弟の命懸けの訴えによって、自分自身を赦して歩んでいく道のスタートラインに立つことができたのだろう。
兄弟推しとしては本当に、ここに辿り着けて良かったと思う次第なのである。まだまだ問題は山積しているのだけども。

余談だが、わざわざ兄弟姉妹対決を被らせたのは恐らく理性がブチギレているラウダのためではないか説を推している。スレッタの台詞をラウダの心境に当て嵌めてもほぼ違和感なく通るので。
恐るべき、兄弟愛。




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