見出し画像

アナキスト 金子文子

「常磐の木―金子文子と朴烈の愛」(キム・ビョラ)を読む
 1923(大正12)年に起きた「朴烈事件」の当事者である朴烈と金子文子の、少年少女時代から逮捕・収監、文子の獄中自殺、朴烈の戦後出獄までを描いた、韓国人作家の小説である。
 
 「作者のことば」として、巻末に著者はこう書いている。「アナキストであると同時にニヒリスト、テロリストでありながら詩人であり、一人の女を限りなく愛したが、結局喪わざるをえなかった男がいた。虐待された少女時代の心の傷のため、苦しみと絶望で身悶えした末、一人の男の中で命と愛が一つになることを発見したが、最も輝くその瞬間に、夜明けの露のように、地上から消えてしまった女がいた」。

 二人が出会ったとき朴烈は21歳、文子は20歳。それまでの二人の人生は、不逞鮮人という差別(朴烈)、祖母や男たちからの虐待(文子)という悲惨なものであった。そんな二人が出会い、愛を育み始めた矢先に、大逆罪をでっち上げられて死刑判決を受けたのである。当時、日本人の女が朝鮮人の男と一緒に暮らすなどということは許されない世情であった。それでも二人は愛を貫いた。そのへんはうまく描かれていて、感動させられる。
 


「金子文子―自己・天皇制国家・朝鮮人」(山田昭次)を読む
 金子文子の評伝である。キム・ビョラの小説とは違って、文子の手記、裁判記録、新聞記事など事実に基づいて生い立ちから獄中死までを丁寧に追い、文子の思想と人生を明らかにしている。

「私は日本人ですけれ共、日本人が憎くて憎くて腹のたぎるのを覚えます。私はその時たゞ目に反射されただけの出来事は、大きく反抗の根となって私の心瞳に焼き付けられて居ります。私の在鮮中の見聞は、私をして朝鮮人のあらゆる、日本の帝国主義を向こうへ廻しての反抗運動に異常な同情を持たせました。私は上京すると間もなく、多くの朝鮮の社会主義者或いは民族運動者と友人になりました。私は実際此の種の運動を他所事として手安く片付け去ることが出来ません」(文子の書簡の一節)。
 
 これについて著者は「文子は東京に来て社会主義の文献を読み、既成の価値観から脱皮して『偉い人』になろうという志向を克服していた。朝鮮人の留学生や知識人と交流し、さらに朴烈とも結婚し、自己の朝鮮体験の理論的位置づけもできた時期の見解である。この言葉は天皇制国家の朝鮮支配や朝鮮支配の尖兵となった日本民衆を本心から否定した言葉であり、近代日本ではきわめて数少ない言葉である」と書いている。
 
 また「日本の民衆が朝鮮民衆と連帯しての日本の侵略に対する抵抗ができるかどうかは、日本人が文明開化を相対化して批判できるか、あるいは日本人の文明の大国意識と結びついた天皇制崇拝を批判できるか否かにかかっていたと言えるだろう。それをしたのが金子文子だった」。「文子は底辺に生きている女性であるために自分の生き方の自律的決定を拒まれている自己にこだわり続けた」。

 文子は朴烈とともに大逆罪で起訴され、死刑判決を受けた。のちに「恩赦」によって無期懲役刑に減刑されたが、移送された宇都宮刑務所で自死する。その理由ははっきりしないが、あるいは「恩赦」という扱いに抗議したかったからかもしれない。関東大震災で朝鮮人虐殺が行われたような時代に、文子のような女性がいたことは深く記憶にとどめておく必要があるだろう。
 


「余白の春」(瀬戸内寂聴)を読む
 
金子文子の伝記小説である。文子の手記、公判での被告の発言や証人尋問などの裁判資料を踏まえて、一瞬の火花のように燃えて散った文子の人物像を描いている。ただし、小説としての脚色もあるようなので、描かれている人物像がどこまで事実そのままなのかは、多少割り引いて読む必要がある。
 その一方で、執筆時点で生き残っていた文子の関係者に取材をしているので、山田昭次の本では触れられていない部分での新しい発見もある。とくに、韓国での取材で朴烈の生地や文子の墓を訪れたときの著者の感慨は、さすがに作家だなと感心させられた。
 
 著者は文子について次のように分析している。「文子は小さな軀に収めきれないほどの生命力をもてあまし、しかもその生命をいつでも白熱の炎をあげるまで完全燃焼させねば気がすまず、自分で自分をかりたてて、がむしゃらに勉強し、猛烈な知識欲を充たそうとしてきた。文子の短い生涯をふりかえると、文子にとって生きるとは、学ぶことと闘うことであった」。「文子がもっとも恐れていたものは、朴烈ひとりが死刑になり、自分の刑が朴烈と差別されて軽くなり、生き残ることであった。この時すでに文子は死刑にならない場合は、自殺することを覚悟していたと見える」。「文子は少なくとも感傷的に死に憧れ、朴烈との心中を図ったのではなく、冷静に哲学的に覚めた意識で死を選びとっていたといえる。死を選ぶことによって自分の思想を生かそうとした積極的な意志がそこに働いていた」。
 
 文子は、死刑から無期懲役に減刑するという特赦状を「手にするや否や、いきなりそれをべりっとひきさき、あっというまもなく、またしてもべりべりっとそれをひき破ってしまった」。「国家権力に抵抗することによって得た死刑は、文子の思想が選びとったものであった。その栄光を奪われた文子が、国家権力によって与えられた生を否定し、自殺するしか自分の思想を貫く方法はないと判断し決意したのは、文子の日頃の揚言から見ればむしろ当然の結果であった」。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?