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孤独と連帯展 3階の部屋のQ&A



Q.
この作品をアートである根拠はどこにありますか?→ソーシャリーエンゲージドアート(SEA)?パフォーマンス?ハプニング?インスタレーション?

A.
そもそもあの部屋自体は作品ではないんです。なぜならあの仕組みを作品として定義していない為、制作環境というのがポジションとして近いです。そこで何かが起こり、作品やプロジェクト、それ以外が発生するようになっています。発生するものがパフォーマンスやインスタレーション、コンセプチュアルな作品になるのでわからなくなるんです。

あとテキストはまだ追加してないのもあるのでその辺りをどう語るか考えます。

Q.
SEAに関してカワムラさんはどう考えていますか?
カワムラさんの今回の作品は社会彫刻→SEAの文脈の中で捉えることが可能と考えますが、SEAというには妙な具体性の無さがある気がします。
もしかして、SEAを「ゆるく」拒否している?

・ボイスの社会彫刻については、「全ての人が芸術家になる」というスタンスから「全ての人が芸術家になる必要はない。それぞれの立場でプレイヤーになった方が面白い」に変更しようと試みています。(これは3階の天井に貼ってる紙にそのまま書いてます)

・SEAについては、実質的にSEAとして語れそうなことを別の語りで出来ないか考えています。機能と目的が明確にある行為を別の語り方をすることであたかもパフォーマンスやインスタレーションのように見せるやり方です。これは、「夜に口笛を吹くと蛇がくる」という語りが夜に騒がないようにさせる機能を持っているようなことです。

SEAの立場に関しては否定するつもりはなく、僕はSEAに囲い切れない可能性を考えてみたい立場というだけです。どちらの仕事もアートというものを開発していく上で重要だと考えています。

Q.
攻殻機動隊との類似点も挙げることができました。ワタナベがカワムラ名義で在廊していたときに考えたのですが、カワムラシュウイチという同一名義を用いながら、個別に存在している各々がパフォームするというのは攻殻機動隊S.A.C第15話に通底するところがあります。タチコマとは違い現実の複数人いるカワムラシュウイチは経験を並列化できないことから、カワムラシュウイチでありながら、明らかな個体差が生じることになります。その辺りの「アーティストの名義貸し」に対する考え(思考実験?)について少し掘り下げたみたいと思いました。

A.
僕は常日頃から身体に制約されている感覚を持っていて、それは身体が弱いからというのもあります。しかし、それ以上にやりたいことや行くべき場所があり過ぎて追いつかないんです。理想は無限の体力と分離して別々の場所で活動しつつも情報は並列化されることなんです。僕のプロジェクトの最終的な理想の状態は、フランチャイズ化して自分以外の誰かが運用していて自分がいなくても意志が機能し続けることです。そういった欲望が「アーティストの業務委託」という形で現れたんです。

Q.
キュレーターの番場と話しているとカワムラさんの今回の作品はフルクサスと共通点が多く認められるような気がしてきました。「カワムラシュウイチ」が複数化していく過程も、「カワムラシュウイチ」がある種の生き方を指すようになるのではないかという疑問です。

・フルクサスに関しては、僕のアーティストとしての立ち位置を語る系譜の流れの1つのポイントにある芸術運動です。

・生き方を示していることに関しては、ドゥルーズの思想に影響を受けているからというのがあります。彼の思想は生き方を示す思想でもあるからです。そして僕は文化出て来る環境を作ろうとしているので、サバイバルする為のいくつかの選択肢を模索し提示しながらサバイバル出来る確率を上げようとしています。ちなみにみんなが「カワムラ」になる必要はないですし、特にそれを望んでません。

Q.デス・ストランディングについて

A.
デス・ストランディングを展示空間に導入しようと考えています。その為にはまず「デス・ストランディング」という展示と同時期に発売されたプレイステーション4のゲームをどう位置付けるか整理していく必要があります。

ところで、展示スペースにある参考文献としてある書籍は何なんでしょうか?
展示空間に居て当然のようにいるアイツ。僕は参考文献を展示空間を補強する補助線だと考えています。同様に僕はデス・ストランディングというゲームも展示空間の補助線になりうると考えています。

3階の空間は、ゲームで遊ぶ人を許容できる空間となっています。さらに重要なのはこのタイミングで同じテーマ性を持ったデス・ストランディングが発売されたことです。その意味を軽んじない為にも空間への配置を検討しています。

Q.
フルクサスとの類似点については既に挙げた通りですが、クルト・シュヴィッタースのメルツバウとの関連を指摘することができるとも思います。その点についてはいかがですか?→プライベイトという場所の固有性や拡張を続けるという特性

A.
今回のプロジェクトでは、岡田さんされている布団祭りというオルタナティブスペースに布団を配備するプロジェクトを僕が発注し、展示空間に配置しました。さらに、この布団はその後もプライベイトで使用出来るように交渉しました。結果的にそれはプライベイトという空間で合宿を行なったりすることがやりやすくなり、機能性が拡張され可能性が広がりました。プライベイトという場所の特徴は、このような介入可能性の余地がある点です。つまり、余白がある。余白があるということはそこにクリエイティヴィティを発揮されやすくなります。「みんなでつくり上げていく」ことが出来るのだと思います。ただその時に無条件に受け入れられるのではなく、交渉という形での折り合いのコミュニケーションが必要です。この折り合いの為のコミュニケーション=共通の利益の共有が大切だと思っています。

Q.
再びデス・ストランディングについて。カワムラさんのアーティストとしての系譜にフルクサスがあることは理解できました。フルクサスの活動はゲーム性のある表現が見られましたが、デス・ストランディングについては「ゲームそのもの」でしかありません。しかし、個人的な直感で言えば、前回の「書籍と同様にゲームも鑑賞の補助線となりうる」という回答に妙に納得できないのです。明らかにその意図を超えた何かがデス・ストランディングの配備にはある気がしてなりません。そう囁くんです。ワタナベのゴーストが。

A.
デス・ストランディングに関してのアクションとしては「孤独と連帯の欲しい物リスト」を公開して誰かがそれを実行するのを待っている段階です。それが実行され空間に配備された時にまた別の可能性が開かれるでしょう。

Q.
クルト・シュヴィッタースはダダ、フルクサスはネオダダの文脈にあります。先日、ダダが日本へ流入した大正時代と現代のリンクについてお話ししましたが、詩人/キュレーターである番場の出現やカワムラさんの作品がダダ、ネオダダ的であるということを鑑みれば、やはり必然的に大正時代との関連が浮かび上がってきます。チンポムの卯城さんが望月桂の《あの世からの花》をメールアートの文脈で捉えているのですが、フルクサスのレイ・ジョンソンが「メール・アート宣言」を行ったことはよく知られています。この導線によってダダ→大正期前衛運動→ネオダダという流れが見えてくると思うのですが、メール・アートについて考えていることがあれば教えてください。

A.
僕のメール・アートに関するシンパシーめいた物は、郵便というシステムを使ってアートは可能か試みた点です。

僕のプロジェクトに「スカイツリーの為の塩」というFacebookのイベントページのメデュウム性に着目したプロジェクトがあります。

それは2106年にスカイツリーで何かのイベントをするプロジェクトなんです。
2106年にスカイツリーがあるのか?
そもそも告知ページがあるFacebookは存在するのか?
そのような日常的に使っているシステムに別の意図や視点を与えるプロジェクトですね。

Q.
クルト・シュヴィッタースはドイツのアーティストです。彼が建築をメディウムとして扱ったことと、ハイデガーの芸術論が関連づけられる気がします。「世界」と「大地」の概念についてはよく知られるところですが、大地、天空(世界?)、神々、人々を繋ぐ行為が住むことであるとハイデガーが述べたことは深く関係していると。バウハウスの例といい、ドイツにおいて、芸術と住居が密接に関わっていることは明らかだと思うのですが、そのあたりについて考えていることがあれば教えてください。

A.
ドイツと住居の関係性に関してはご指摘されるまであまり意識してませんでした。グレゴール・シュナイダーの仕事はまさにその文脈で語れますね。この文脈が「廃墟」というモチーフの延長線上にあるかなどとても興味深いですね。

日本という場所で住居を作品化するとなると、岡田さんも関わっている斎藤恵汰さんの「渋家」などがありますね。個人的な影響としては「desk/okumura」というアーティストランスペースを運営していた奥村直樹くんの実践から多くのアイデアを得ました。

僕は西洋と東洋の建築の在り方に興味を持っています。西洋において建築物は普遍性の意味合いがあります。だからこそ美術館という考え方が成立する。それに対して、東洋の建築は建て替えることがあらかじめ含まれている。そこで重要になるのは設計図を含めた指示書です。この辺りを今後掘り下げていきたいと考えています。

ぼくの欲望は、「この場所で文化を軸としたムーブメントをつくる」ことなんです。それは途方もないことである意味で荒唐無稽なことでもあるんです。まさに展覧会にUFO を呼ぶように。

しかし、それを実現するためには多くの人に"乗ってもらう"必要があります。その為に本気でやろうとしていることを言葉と行動で示していく必要があるんです。この展示での僕の示すべき態度はそういった意味合いがありました。

僕はこの展示に関わるにあたって
「孤独」と「連帯」とどう付き合っていくか?を真剣に考える時間を得ました。結果として、これまではバラバラのものが組み合わさる環境の構築が軸でしたが、そこに「共通の利益をベースにした連帯」というアイデアが加わったことは僕にとってとても大きなことでした。そういった意味でもこの展示に参加出来たことに感謝しています。

これから時代を生き抜く為には、いかに折り合いを設計するか、対立に講和の道筋をつけるか、そういったコミュニケーションが必要になります。その過程でいくつもの絶望と向き合わされると思います。だからこそ、「絶望とも仲良く」していく必要があると思っています。

聞き手:ワタナベ

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