休憩室

紙を裏返せば、乾いたインクは見えなくなる。昨日のように?

昨日の遺産は負債ばかりだろうか。

火曜の夜。桝目のように切られたピザを貪る。「貧しい」と「貪る」が似ている。字面だけではない。

温まったばかりなのに既に冷え始めている。季節。誘惑に魅かれていくピザ。逃げるピザ。逃げるピザを追いかける唇と口。犬歯よ!急ぎ足のピザ・・・

表面は徐徐にかたく、艶は冷め、鼓動は遅くなってゆく。

 

彼に話した。昨日と同じ場所にいた。図書館の一室の浮かない空間。三流の部屋。壁は天井に届かぬまま成長を止め、壁は両辺に届かぬまま肥大を止めた。四角く切られたピザをピザの冒涜と呼ぶことが独創の翼をへし折ることに等しいならば、この部屋を合理的で開閉性に富む箱の冒涜と呼ぶことは画家の目の脱皮能力の冒涜と言えるだろう。


そこに彼はいた。同じ卓、同じ椅子に倚っていた。日日の繰り返しを嫌う彼も日日のわかりやすさを理解している。


【私が読んでいた絵本】

⭐︎

みしまゆきおは しにました

1975ねん 11がつ25にち りくぐんの じむしょを

のっとって えんぜつをして それからさいごに

おなかをきって しにました

その11がつの 2しゅうかんめの ことでした

とうぶデパートで てんらんかいが あったのは

「豊饒の海」とだいされて みしまゆきおの

しゃしんがたくさんありました

めぐみゆたかな うみのしゃしんが スチール版で

さいごのへやの かべいちめんに ありました

じんぼうちょうの やまぐちしょてんの

やまぐちさんは みしまゆきおの 大ファンで

てんらんかいのてつだいをしていました

かいじょうにおとずれた みしまさん

ほうじょうなうみのスチールしゃしんをみて

しばらくとまってみたそうです

このてんらんかいは みしまゆきおという

にんげんを よっつのくかくに分けてみて

それぞれがおしまいにはひとつのうみに

そそぎこむことをめざしてました


2015ねんにどなるどきーんはしんぶんで

しんゆうの みしまゆきおについて かきました:

みしまさんとニューヨークにきたとき

ふたりでふるほんやさんにいきました

みしまさんはらてんごで地名の書いてある

月のちずをかいました 

月には大きな海があり

“Mare Fecunditatis”

ほうじょうのうみ

というなまえです

みしまさんのさいごのさくひん

豊饒の海

よんさつからなるよねんがかりのちょうへんです.


きーんさんはおてがみで ほうじょうのうみ のいみをききました

みしまさんは「からからでかれはててしまったおつきさまのうみのことですよ」

とおしえてあげました。

⭐︎


そして

彼は泣いていた。雪の泥は降り積もっていた。透明な涙は見えなくて雨のように染みる。涙は川のように泳ぎ海のように開き雪のように覆った。彼の所有の循環系。プラスチックなキスが濁汚する循環系。彼は「純粋な気持ちを」と嘆いた。汚れた手で触れることはできない。



しそう、しそう。思想。ひとが、かくもの、しゃべるもの。その背の、命令形。それは思想。いや、思潮じゃない?ほんとう。思想は宇宙を越えるね。試走も右中間を超えるよう。それは疾走じゃない?失踪だね。ほんとう。

もじ、もじ。文字。もじをかくひと、しゃべるひと。その背の、命令形。もじからの疾走。失踪。脱走。ほんとう。


文字を沢山積む人。文字を沢山積む人が沢山ある。文字を沢山積む人が沢山ある。文字を積む人が沢山あるのが積んだ文字の沢山。文字を沢山積む人が沢山あるのが積んだ文字の沢山を沢山積んだ人。その人が積んだ文字。その文字。その沢山。沢山。沢山を登る人。沢山を登る人。沢山を登る人の一年。沢山を登る人の十年と二十年。沢山を登る人の三十年にその人の積んだ文字。文字。文字を積む人。文字を沢山積む人。文字を積まない人。文字を登らない人。百年と二百年。人から文字を摘みあげる三百年。そして生まれる人。


閑話休題。動機について考えていた。「わからない」というのは分かることへの憧れだ。なぜピザは分かたれてあるのだろう。なぜ彼は書くのだろう。なぜ私は。思想より思潮のほうが偉いという訳?表裏一体、違いはないはずなのに。


なぜ彼を好きになったのか。やさしいひと?想像力と世故が足りない。優等生で馬鹿。馬鹿で出世欲。出世欲と普通への執着。肉体への執着。すべて不安と排除の論理だ。彼に責任も悪意も存在してない。それならどんな行動も認められない。


院生の誰かが、行動と行動の客観的記述とは違うという内容の発表をさも大発見かのようにしてたけど、出席の諸君もさも重大な発見に居合わせているかのようにしてたけど。分析哲学というのは、頭のわるい人たちの逃避行の島なんだと悟った。


その漂流者はたしか「靴紐を結ぶ」ことについて話してた。靴紐を結ぶとき、人は手指を特定の方法で動かすけれど、それは「靴紐を結ぶ」という行動の中で手指を動かすのであって、逆にその手指の動きのみに注意したってその意味に辿り着かないだろうという例だった。論理記号の積み遊びに逸して百年くらい遅れた人の沢山。「個人的な文字」なんて考えるのも馬鹿げている。


詩人なら「その人なりの必然性があると思うから、この人はどういう歴史があって、どういう目的があってとか想像して、その人の存在自体を理解したいです」と言うけれどそれは作法や姿勢にすぎないでしょう。人を見るよりその背にあるものをみたほうがわかる。詩人は歴史の展覧会にいって「生の一回性にこだわるものとして関連が薄く見える」と言うけれどそれもやはりはったりにすぎないでしょう。


私たちはいつもコーヒーカップの中。ならばおわかれもコーヒーカップの中から書けるみたい。


コーヒーカップの あかぐろい

おいけのなかの しろいてが

ゆらゆらと おててをふって いたのです

ゆげのけむりの くゆるりと

くゆりくゆりと ゆれるよう

ゆらゆらと そのてをふって さよならです

この一杯のコーヒーと 

出会って別れ さよならです

コーヒーの 知らぬ人との まちあわせ

さよならのときに あらわれて

しろいおてての おもかげが

はじめましての あいさつでした

ゆらゆらと そのてをふって いるのです

もう行かなければいけないのだけど。

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