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     初めてのnoto

池上氏と私が知り合ったのは、10年以上前Facebookというツールを使ってコメントのやり取りをしたのがきっかけだった。その時は今ほど親密な友人関係になることは想像していなかった。私は平凡な田舎育ちの人間で、彼は東京で物書きを生業とした知る人ぞ知る有名人だったからだ。

彼は物知りで、音楽の事、美術の事、食事やワインの事、犬の事などジャンルに関係なく、博学でなんでも知っていた。私が最初に教えてもらった「カヤジャム」は、シンガポールの名産品で、本場の味(は、池上家がシンガポールに旅行に行ったときにお土産で買ってきてくれたもの)も彼の手作りも味わい、作り方も教えてくれたので自分でも作ってみた。カスタードクリームのような甘い味わいで、どれもとてもおいしかった。

ピスタチオ餅とルーカス


東京に遊びに行くと必ず「家に来なさい、ランチをご馳走するから」と言われ、遠慮のない私は本当に何度も何度もお邪魔した。手作りパティのハンバーガーをはじめ、お蕎麦やスイカとミントのさわやかサラダ、ピスタチオ餅、大盛りパスタに丹念に選んだコーヒー豆でドリップしたコーヒーetc・・・その都度、コース料理のように丁寧なお料理が次から次へと出てくる。数え上げたらきりのないほど、お手製のランチをご馳走になった。しかも、口に合わないというものが一つもなかった。どれも絶品のプロ級のものばかりだった。そしてお礼に果物好きの犬に柿やスイカを私が送ると、軽井沢に行った時のお土産、信州に行った時のお土産といって送ってくれるのだ。なので、そのお礼にまた私が。。。というループを長年続けていた。毎年楽しみに送っていたし、贈り物も楽しみに待っていた。

心臓が悪くて入院したときは、東京の病院までお見舞いにも行った。足がパンパンにむくんでいて、「これが引かないと退院できないんだよ」と言っていた。痩せた細い体には不似合いな、むくんで皮膚がパンパンに膨らんだ風船のような足だった。同時期に飼い犬のルーカスも具合が悪く、ハラハラどきどきの毎日を送っていたのを覚えている。この時、確かにルーカスが池上氏の悪いものも持って行ったのだと確信する。賢い犬だったもの。

ルーカスと池上氏



病院にお見舞いに行く、家に遊びに行くたびごとに友人を紹介してくださって、私の交友関係も広がったし、近年は私が彼の家に友人をお連れすることもしばしばあった。
東京の親戚のような感覚が私にはあって、お互い気を使うことなく、毒舌を発揮し、笑ったりして楽しくもおいしい時間を過ごしたことしか思い出がない。

身近で突然いなくなるという経験は、豊橋のジャズインチェロキーのマスターたかみちゃんがそうだったし、父もそうだったが、たかみちゃんも父も、荼毘にふすまでを見送ったため、喪失感に違和感はなかった。池上氏の時は仕事の帰り際にメッセージを読み、茫然としてしばらく車を運転することをはばかられた。なぜって、数日前には奥様の麻紀子さんからおいしいものをいただいたばかりで、お礼のメッセージのやり取りを彼ともしていたからだ。だから近しい友人のむつみさんからメッセージを受け取っても、何が起きているのか全く理解できなかった。そしてだんだん麻紀子夫人の事が心配になり、いてもたってもいられずお忙しいとは思いつつ、お悔やみも言えなかったが、とにかくどんな感じなのか心配でメッセージを入れてみた。意外と気丈にふるまっていてくれて、ちょこっとだけ安心はしたものの、不安感はぬぐえないし、自分はどうやって家まで帰ったのか記憶が定かではない。

ただ、今思うのは麻酔で眠らされ、死ぬなどとは思いもせず、手術は成功すると信じていたのだろうと思うと、世の池上氏を知りえるすべての人より誰より、本人が1番びっくりしているのではなかろうか。私も今はまだ、実感もわかない。何か書かなければと思いつつ何を書けばいいのかもわからずただ筆を走らせた。コロナのご時世で「お別れの会」も開催される確約もないが、いつか、きちんと向き合ってお別れをしたいものだ。それまでは無理に落ち着こうとせず、現実を受け止められなくてもいい、ふわふわしていようと思う。
そして最後に池上氏と会ったのが、ちょうど1年前の2021年5月28日だったので、記念に初めてnoteを書いてみた。

多分、最後にいただいたランチ
器もいつも楽しみだった。