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平等な世界

プラトンは著作『国家』の中で、子供は生まれたら直ちに親元を離れ国家が預かるべきである、という旨の主張ある。

初めてこれを読んだとき、なんだこれは、と思った。
なぜなら、家族というものは認められていないからだ。
親も子供もお互いを知ることができない。
なんとも無味乾燥な国家であろう、と思った。

今でもこの考えがいいとは思えない。
ぼく自身、いずれは子供が欲しいし、子供とは一緒に年を重ねたい。
これがなぜか?という理由はぼくにもわからない。
でも、とにかく子供と年を重ねたい。

だからといって冒頭の、『国家』の主張を全く無視していいものだろうか。
平等な国家を築く上では、必要な考えのように思えてきた。

平等な国家を実現するには、家族というものは邪魔なのではないだろうか。
親の七光りという言葉があるように、先代の力が大きな影響力を及ぼすことがある。
日本だけで見ても、東京大学の入学生9割が親の年収900万以上、という事態が生じている。

もちろん、入試を突破した本人の努力が最も大きい。
だが、塾に通う、問題集を買う、入学後の学費を払う、という親からの援助がなくては成し得なかったことでもある。
もし、親の年収に関係なく全員が、等しく平等に塾通い、問題集を買えたら、今いる東京大学生の何人が東京大学生として残ることができるだろうか。

子供の進路に親の与える影響は大きい。
機会は平等に与えられているというが、実はそうでもない。
たしかに、塾に通う機会、入試を受ける機会は平等に与えられている。
だが、それを実行することができるのは、親がそこから発生する費用をまかなえる場合に限るのだ。
子供にとって、これが平等な機会、と言えるだろうか?

不平等であろう。

このような不平等をなくすために、国家が生まれたときから子供を預かる、ということは有効だ。
全員が国家の子として扱われるため、先代による不平等が発生しない。

これは国家にとっては望ましいことかもしれない。
だが、個人にとってこれは望ましいことと言えるのだろうか?

望ましいのだが、ぼくがこれを理解できる域にまで達していないだけなのだろうか? 

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