ティツィアーノ《ノリ・メ・タンゲレ》についてのスケッチ

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 本投稿は、ティツィアーノによる《ノリ・メ・タンゲレ》(1514)の絵画空間を探るスケッチとして書かれている。

 本作の主題を聖書の記述から確認しておこう。キリストは復活後、マグダラのマリアの前に現れるが、最初、彼女はキリストを庭師だと思っている(キリストは鍬を手にしている)。彼女が気づいたとき、キリストは言う。「わたしにさわるな。まだ父のもところに上っていないから。わが兄弟たちのところへ行って、「わたしは、わが父であなた方の父、わが神であなた方の神のところへ上る」と告げよ」(*1)。
 聖書が語るのは、キリストの存在がこの世の者でもあの世の者でもないという両義性であり、《ノリ・メ・タンゲレ》が描きだすのもまた、そのような二重の事態である。

 まずは画面構成について。画面はふたりの人物と背景から組織されている。ひとりはキリストであり、もうひとりはマグダラのマリアである。背景は、くの字にまがった木と丸みを帯びた茂みが前景に配置されており、画面右上の中景には、小高い丘のうえに建物が上空へと伸びるように描き込まれ、そして左上の後景には、牧草地帯(中景)を挟んで青く霞んだ大地が広がっている。
 キリストとマリアのポーズはあきらかに、中景のくの字に曲がった木と丸みを帯びた茂みのフォルムを反復しているが、この、左上へと伸びる木の斜線軸によって、画面は二分される。この分割は同時に、キリストとマリアの世界の分断でもあるだろう——その斜線軸を境にして、キリストは暗く沈んだ影の側に、いっぽうマリアは明るく照らされた光の側に配置されている。構図の中心をなすキリストの左手と、マリアの鼻先に接するように下されたキリストが持つ鍬の要素も同様の機能を果たし、彼女の接近を押しとどめる境界線としての役割を担わされている。
 画面は要するに、ふたつの斜線軸によってちょうどX字に分割され、それぞれの領域の境界線に沿うようにしてキリストとマリアの配置が決定づけられている(この対比は、木の斜線軸がキリストの右足の角度と平行をなし、鍬の斜線軸もまたマリアの左腕の角度と平行をなすことによって補強される)。
 巧妙なのは、その対比をさらに強調するかのように、マリアのドレスの赤とキリストの頭部を包む青とが対比をなすように配置されていることだ。それゆえ、両者がすでに異なる世界に属していることが構造的に示唆される。
 しかしながら、両者の動作に着目すれば、マリアの頭上に左手を下ろすキリストの所作は、いっぽうの斜線軸(木)を侵犯しているし、キリストの性器付近に手を伸ばすマリアの挙動もまた、もういっぽうの斜線軸(鍬)を越え出てしまっている。
 とくに興味深いのは、このマリアの接近に対するキリストの矛盾した反応だろう——彼女に対してキリストは後方へ退くように身を屈めて応じている。ルドルフ・アルンハイムの指摘にしたがうなら、「このくぼみは斜線によってあらゆる矛盾した性質をあらわしている」(*2)。すなわち、キリストを上から下に見たときには、「キリストはマリアをはねつけて触れるのを拒んでいるようにみえ」るのに対し、下から上に見たときには、「キリストはかがみこんでマリアを護るように受け入れているように見える」(*3)。この、拒否と受容という相反する所作こそ、キリストの両義性——人間性と超越性——を担保するものにほかならない。すなわち、キリストの身体は、腰を境に上下——上半身は超越性に属し、下半身は人間性に属する——に二分されるのだ。
 さらにまた、やや奇妙な印象を受けるのは、キリストが水平線よりやや下に配され、画面右上の建物へと吸い寄せられるかのように身をよじるキリストの姿勢——背後の木の枝の傾きとの対応によって強調されている——を木(斜線軸)が阻止するかたちで構成された、その作図上の歪さにある。この、水平線と木の軸線によって囲われる領域が、遠景に描かれた空=天へとのぼろうとするキリストを、現世=地上へと留めおくための画面上の制約であるとみなすなら、復活したキリストに触れようと手を差し出すマリアの所作は、ここではキリストを現世へと繋ぎとめようと縋る懇願のポーズとして理解できるだろう。その見方を裏打ちするかのように、マリアの身体が木=斜線軸の延長線上に置かれており、それゆえ、彼女自体がキリストの行く手を阻む境界そのものと化す効果が画面に与えられている。
 わたしたちの視線はそのとき、マリアの左腕、左辺三分の一を占める地面と鍬の刃、そしてキリストの胴体の角度とが互いに織りなす斜線軸に導かれて、画面右上の小高い丘のうえにたつ建物へと自然と誘導されていく。前景の人物と遠景の明度がほとんど同じに設定されていることも手伝って、この誘導はなかば不可避的に遂行される。そして、おそらくは視線の先にあるその建物こそ——キリストの胴体の傾きと照らし合わせて考えるなら——キリストが天へとのぼる場所だろう。視線はさらに上へ向かう。早朝だろう、空の大部分が日の光に染まった雲で厚く覆われているのに対し、建物の頭上だけが晴れ渡った青空であり、それは、キリストの昇天が間近に迫っていることを告げている。

 マリアの行為に対して惹起されるキリストの反応はしたがって、三通りの出来事——「拒否」、「受容」、「昇天」——に分けることができる。いいかえれば、ここではひとつの原因に対応する結果が三つに分岐するという事態が生じている。しかも、それらの出来事=平面は鑑賞者の視覚のうえでは互いに分裂し、彼/彼女の視線の推移にしたがってそのつどランダムに出現と消滅を画面上で繰り返す(「うさぎ-あひる図」のように)。そこに時間的オーダーは見出されない。ひとつの画面に三つの出来事が同時に伏在している。


* 1 「ヨハネ福音書」前田護郎訳『世界の名著12 聖書』中央公論社、1968年、514頁。

* 2 ルドルフ・アルンハイム『中心の力——美術における構図の研究』関計夫訳、紀伊國屋書店、1983年、144頁。

* 3 同上。

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