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自分のこと6 26歳~ スピリチュアル

これの続き

社会人になった頃かな。
このへんは転機なので、古い付き合いでも性格が変わってしまう人が多く現れます。
私は社会からはみ出てでも、一番近くを守りたかったので、その転機には出会いませんでしたかね。

働く傍らで、要支援2くらいかなの母を介助したり、相変わらず生きる気欲を失いかける母を支える日々だったと思います。
昔(私が小学生くらい)は、生にしがみつく気持ちが少なからずあったので、クリスチャンだった時期はあったのです。エデンで私と再会するという希望を持ってたみたい。
なので、キリスト教の集会に連れて行かれるのは私だけでした。他に理由あるかもしれんけど、それは聞いてないから推し測れません。
無病息災の健康体での再会を中座した母を支えるには、何か夢中になるものが大事だと思っていました。夏目友人帳がヒットするまでが長かったかな。

時期がどこだったか分かりませんが、古い友人の不審な挙動に振り回されないほど精神的に大人ではなかったので、このあたりから病み始めます。
面白いですよね、昨日までSkypeで話してたような友人を、Twitterでブロック出来るらしい。しかも単体なら「ああ、なんか嫌われたかな」くらいで済むのですが、それこそ毎日さぎょいぷしてるような他の人を巻き込んでるんですよ。
当の本人は垢削除に見せ掛けて数日後に復活してる雑なやり口。巻き込まれた方は私に特に嫌だと思ってなかった(から毎日さぎょいぷしてたんやろね)ので、何を言われたかは分かりませんが、強気でものを言えないのを突かれたのかなと思います。

中学の頃に友人を取られた状況と大差ないですね。
しかも面白いことにね、この……垢削除をAとして、もう片方をBとしますと、AはBに「私が先に(自分と)友達になったのに!!」と突っかかってるんです。所有欲とか独占欲すごいな。その時もB困ってましたし、状況的には後ろ髪引かれながらでも口車に乗るしかなかったブロックでしょう。解除されてましたからね。

Aの方が長い付き合いです。
彼氏と揉めて、彼氏を責める友人が居るから、私に助けを求めてきたこともありましたね。
あれは結構難しい扱いの案件でした。責めてる人は正論だから撥ねつける意味がなくて、AとAの元彼がコソコソ逃げてる感じです。

特に嫌われる行動はしていないので、この子に関してはもう「知らん」としか言いようがないですが。
今日地震が起きたように、つい最近まで「知らん」と言いきれなかったので、長らく悩んでいました。

まあこの子以外にも色々あって、ストレスが溜まってきていました。
地頭がいいというのは厄介で、更に武家というのも厄介でした。狂いかけた私は、人を最悪の形で害することを嫌だと思えないほど病んでいた。

その時に通っていたのは1社目と2社目でした。
1社目が小学生時代に住んでいた土地にあり、帰り道に神社があると、ふと気付く機会がありました。
あんなに散歩が好きで、友達の家に行くには必ず通った道なのに、神社があると私は知らなかった。

ただ、そこを通り過ぎた時に、殺意の塊になっていた私のストレスが、ゴソッと消えたのです。
なんと形容すればよいでしょうね。
飲水の乗ったお盆をひっくり返すような、とでも言えばいいでしょうか。
親戚に配るだけある、お盆に所狭しと並べたものを、全てひっくり返したような。
覆水盆に返らずといいます。
それだけ大量のものをひっくり返し、根こそぎ無くなった。その横に神社があったのです。

そういえば、この土地から引っ越してから、スピリチュアルなのか精神病的なものなのか、変な事が増えました。突然に。
ここのヒトが守ってくれていたのかな?と鳥居に近付いたら、誰も居ない境内から、揺れてもいない鈴の「じゃらん」という音がしました。高いところから落ちてぶつけたような、ちょっと不気味な音。

当時は「暗いな」が印象的な神社でした。
直感的に、「入るな、帰れ」と言われているようだと感じて、その日は気付かないふりをして帰りました。
しかし、神社から力を貰うとしぬほど眠くなるといいますね、あれになりました。ひどく強い眠気に襲われたので、その日は寝ました。

キリスト教は連れて行かれただけだから詳しく教義を知っている訳でもなし、かといって神仏は「結構いるんだなぁ」くらいの認識でした。
要は無宗教。
居ないと断言できないし、する必要も無いので、居るんなら居るんだろうと思っていました。
まあ事実、兄が持っている蔵書には「科学の祖が証明したかったのは神の存在だった」と書いてありました。
実際がどうかは知りませんが、「証明できないことが否定できる」と謎解釈をした後継に、神を否定される羽目になりますね。
「居ることを証明できない」は、「居るかもしれないし、居ないかもしれない」の宙吊り状態でしかないので、「証明できないから居ない」は単なる当て付けですね。頭悪いんかな。

まあそれはさておき。
もしかしたら小学生時代にお世話になっていたかもしれない神様だというのに、感謝のひとつも出来ていない。それはなんだか不義理だなと思いました。
この時点ではまだ何も聴こえてなかったかな。

霊感のある子は友人に何人かいて、高校時代は「理解しても知らないふりをするのがいい」と言われていました。寄ってくるからだそうです。
私はクジラが超音波で周りを感知するように、なんとなく「あのへんにいるな」くらいで、見えないし確証もない中途半端でしたが、くっきり見える子はよく体調を崩していましたね。
元学生寮の建物に1番近いところに教室があるから、一日に3人は見るのだとか。そいつぁつらいな。

そのうちの1人の友人と話しているうち、少しずつ霊泉が発達したのか、色々聴こえるようになりました。

正直、最初は自分の頭を疑いました

タルパがいる身ですから、またタルパみたいなのが出来たのかなと。
しかし、アチラサマ(神様や精霊といった存在)は、私が知らない知識を私に言います。確認すれば当たっているのです。
後々、付喪神のようなもの、人工精霊、果てには石という元来意思疎通できないものまで声がするようになってきました。

マジで自分の頭を疑いました

しかし、私が知らない知識を、私が作り出すことはできない。ましてや神道はノータッチです。
神道に強い子に聞いても、合っていると言われました。同時に、それを公示するのはやめておけよとも。まあもうその子いないのと、どうせ遺言ですしもう書いときますけど。

あと、自分的検証ですが
タルパが喋る時に使う脳の部位と、アチラサマの声が聴こえてる時に使う脳の部位が違うと気付きました。

他人を殺したいほどストレスが溜まって気が狂いかけていたのを、殺意ごと全部持っていったのです。
ここまで判明していて、否定するのも失礼だなと思い、聴こえることを認めることにしました。
元々、素質はあったんだしね。
幼少期に海さんに話し掛けられて難を逃れたのも、何となくでもそういうものが居るのが分かったのも。
あといつの時期だったか判然としませんが、この神社はお祭りの時に開かれるのです。境内から、境内ではない景色が見えたこともあったし、たこやき盗み食いしてるアチラサマも目撃してしまったことがあったり。

では、小学生時代に、崖から転げ落ちて困ってた時に運良く人が現れたことも
派手に転けた時に運良く人が現れたことも
この土地にいる時は特に苦しんだ覚えがないことも
この神社のヒトが見守ってくれていたからということになります。
入るなと言うなら、鳥居の外から。
家にいても届くようなので、帰宅してからなど、いろんな場面で感謝をしてきました。

友人に「疱瘡神には願うなよ」と言われたので調べましたが、どうやらそうではない。
とは言っても、私は特に願ったりはしない。
マンキンと考え方が同じなんです。
神様に誓いを立てることで、弱い自分の心に釘を刺す。
見守って頂くという発想はあっても、叶えて貰うという発想はない。

そのうちに、鳥居の先、狛犬よりは後ろなら入っても良いと言われるようになりました。
私が祈る分、境内は少し明るくはなりましたが、依然として暗い。動植物もいない。

鳥居に入る前に必ず中が大丈夫か感じ取るように言い聞かされ、作法もきちんと出来るまでやり直しをくらいました。なかなか覚えなかったんですよね手水舎の作法……。
手順間違えたらすぐやり直しって言われるんですよ。厳しいでしょう。
でも、「その神社では許されても、他はそうではない」という面倒見の賜物です。

父さんと同じです。
「社会に出たら困る」。
社会に通じる作法を身につけるための厳しさ。
それくらいはわかります。
特にアチラサマは、作法ひとつで機嫌を損ねることがあります。

たまに拝殿前まで入るのを許されることもありましたが、当時の私は恥ずかしがりで。いや今もかな。
神様の御前に立つというのを恥ずかしがったり、よくしていましたが
霊泉が発達して、作法を身につけて、アチラサマと友人の両者から知識を得るたび、ちょっとずつ難しいことが出来るようになっていきました。

その最中、1回、「狛犬の手前まで行って、必ず止まりなさい。」と言われたことがありました。
何かなと思っていたら、凄まじい怖気に見舞われました。

四ツ目神を知ってる方なら話が通じますかね。
本殿に入ったらグチャグチャの本尊がいるとか、タガタのバッドエンドルートの超常現象みたいな。
普段から、私が感謝を捧げている神様は、「悪いもの」に押し潰されて、動けないでいらっしゃった。


そう、人間が抱える負の感情と、この土地が吸い上げてきた嘆きの数だけの重みを。


メルスト的に言えばとどめきのように、その身をもって留めている。
その重みが、どれほどのものか、怖気が物語るのです。

当時はまだ建て直されていなかったため、「出てこないでください」の結びをされた注連縄や紙垂。
宮司がいる時にしか開かない拝殿。
開いても神職以外の立ち入りが禁じられた場。

狛犬ほど離れていてもわかる。
拝殿から出ようとする、『鬼』の気配。

当時、友達に「どのくらい感じ取れる?」と聞かれ、「なんかアメーバみたいな黒いヘドロと、悪霊だろうなってのは何となくくらいで、あとはとうらぶの時間遡行軍(大太刀)みたいな禍々し感じの大鬼とかはわかる」と答えたことがありますが
そんなレベルではない。

『出てきてはいけない鬼』に魂を奪われる神様。
拝殿をドンドン殴って外に出ようとする悪鬼。
それだけの『他人の負のエネルギーを吸収している神様』。

恐ろしいということを理解させるためにそこまで入れたそうだし、実際に何も出来ず竦みましたが
それだけの負のエネルギーを受け持ってる神様に、私たち生者は「出てこないでください」と言っている現実に呆然としました。


神様への供物は、感謝や祈りである。
友達が言っていた言葉。
なら、それがあの重そうなグチャグチャを退ける手助けになるのではないか。
無茶をしたのかもしれません。私わりとそこらへんは分かってないこともあるし、頑固なこともあるから。
けども、続けました。
「入るな、帰れ」と言った神様。
そのヒトが鬼に乗っ取られて苦しんでのたうちまわるのを、霊感のないものは知りえない。
その元凶が負のエネルギーだということすら。

殺意の塊になった私を助けてくれた神様です。
鬼化して暴れて苦しむなら、返せるものは返したい。

結果論でしかないので、褒められたことではなかったかもしれませんが、最終的には境内が明るくなりました。
動植物も帰ってきた。
私が参拝すると何故か参拝客が増えていって。
友達には「やーい座敷童子www」とか言われる始末。うんまあ信者が増えたら回復が早くなるからね。
「こんなところに神社あったっけ」みたいな人も何人か見掛けました。

そうやって過ごすうち、「氏子、ちょっと社に来てくれないか」と言われることがあり、覗きに行ってみると、建て直し工事が始まっていました。
何が起きた。
その頃には、押し潰されていた本霊様も境内の中をうろつけるようになってらっしゃったので
「出てこないでください」は無意味になった。
建て直しが終わってまた呼ばれた時には、「出てこないでください」の注連縄は無くなっていて
綺麗な建物になっていて
毎日夜は灯りを灯されるようになり
拝殿が開いても上がれなかったそこは、祈祷が行われる場所になり
三が日は神札すら配布されるようにまでなった。
初年度だけではない、翌年もありました。
第二の父のように慕っている神様でしたから、とても嬉しくて。

この間約十年ありますが()、本当に色々ありました。
愛着障害のせいで愛情を拒む私に、辛抱強く愛情を与えてくれた。
モンスターペアレントみたいに怒ってくれた。
私が間違ったら説教をしてくれた。


人間がやらないことを、彼らはしてくれる


いい事ばかりではなかったですが、圧倒的にいい事が多かった。
とうらぶをし始めてから、「(刀の)三日月には絶対接触しない」と決めていたのに、強制的に呼ばれてしまって、石切さんと小狐さんと出会ったり。
いや小狐さんはキャラクターと性格反対でちょっとウケた。
刀神に目を付けられるということは、魂を斬られる(要するに変死する)ということ。
他はうちの県の古い神様に気に入られて、夢の中で連れて行かれかけたり。いや夢の中は逆らう手立てが無さ過ぎて困りますね。
氏神様は職場近くという感じなので、引越し先は別の神様がいらっしゃるのですが、そこで地蔵様に連れて行かれそうになったり。あれなんだったの??
なんか分からんけどとりあえず旋風が起きていきなり気絶しかけた。氏神様に「氏子、しっかりしろ!」と言われて何とかなりましたが。

何故か祝具が作れたり。
霊感ある人が通販サイト見たら分かるかもしれませんが(私には分からん)、負のエネルギーが高い人(もしくは吸収体質?)が見ると目が潰れるとか言われました。飛行石かな???(バルス)
シータみたいに服の下にしまったら見えないらしいので。直視したらしぬほど眩しいからやめてって言われた。なぜ……(見えない)

もう6000字とか長いので今回はこのくらいにしますが
私が「氏神様」とお呼びする神様との話は、触りはこんなもんです。
最初の出会いは、私を助けてくれたこと。
私が感謝を捧げたのは、20年前からの恩を祈りにして返したかったから。
私が氏神様を信じているのは説教も愛もきちんとしてくれるから。
氏神様は「20年も経ったのに律儀に感謝してくれる愛い子」と思ってくださる。

アチラサマは人間と違って嘘をつかないし、約束を破らない

この関係性が終わることは、たぶんない。
信仰が途絶えても、最後の最後まで愛する神がいるように。彼らの愛は変わらないもの。

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