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マスクしろよとかいう同調圧力。

今日はマスクを忘れて図書館にいったのだが、マスクなしの外出はずいぶん居心地が悪いものだと痛感した。


家に最も近い図書館でさえ家から7キロもあるのだから図書館に行くときはいつも車を使う。

好きな音楽をかけ一人で図書館へ向けてドライブ。なかなか粋じゃないか。

ちなみに最近の推しはflumpoolである。


横断歩道で一時停止中、車内からマスク姿の歩行者を見てはっとした。

「あ、マスク忘れた。」

結構ショックだった。

すかさず歩行者を見渡しマスクをしてないのは自分だけじゃないはずという期待感のもと、マスクをしていない人を探した。

いやはや完敗である。

そろいもそろってみんなつけてやがるのだ。

日本人ってやつはどこまでいっても真面目なんやなあと感心しつつも、図書館までの道中一抹の不安を禁じ得ない。


「あれ、マスクなしで図書館入ったら非常識だと思われるんじゃないか?」

「職員に文句いわれるんじゃ。」

「話しかけても素っ気ない態度をとられやしないか。」


んなことあるわけないと思うが、そういう不安を完全にかき消すことはできなかった。


案の定図書館を訪れる人々はみなマスクをしており、顔面を露出させて図書館に入る自分に違和感を覚える。

もちろん職員の方々も丁寧な対応をとってくれたし、僕に対して不快感を示すような人は誰もいなかった。

当然である。考えすぎなのは百も承知だ。


しかしかなり居心地が悪かったのは事実である。

このご時世に自分だけがマスクをしていないというのは大きな重圧だ。

周りの人間が同じような装いをしているだけでその重みは輪から外れた人間の肩にのしかかる。

同調しろと。

もちろん勝手な妄想なのだが、皆がマスクをしているという状況はそういう考えを僕に押し付けてくる。


これは僕に限ったことじゃないと思うし、マスクに限ったことでもない。

コロナの脅威が去らない限り、周りの人へのエチケットという観点からもマスク着用は国民の義務に近い。

仕方がない。

しかし日本はマスク以外にも多分に同調をよびかける雰囲気があるようだ。

常識、慣習、マナーと様々な場面で同調は顔を覗かせ良くも悪くも人々の個性を埋没させる。

コロナにおいてこの同調は成果を上げているが、一方で他者の価値観を封じ込め苦しめてしまうケースも少なくない。

こうした負の同調を打ち負かすのは難しいが、自分がそれに気づき指摘するぐらいのことはしていきたい。

価値観が多様化している現代だからこそ必要な意識だ。


と、まあ話が壮大になったがマスクをせずに外出したら肩身の狭さを感じたというだけの話である。

ちなみに今日借りたのは、『死なせない屋』という小説と、卒論参考文献にしようと考えている『徳は知なり』という堅苦しい本だけだ。



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