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悔しさはバネになる。

7年前、僕は高校受験に失敗した。

それはそれはもう自他共に認める大失敗である。



中学生時代の自分は勉強もスポーツも得意で、自分でいうのも気持ち悪いがそれなりに文武両道な学生だったのもかもしれない。

定期テストでは常に高得点をたたき出しクラスの喝采を浴びていた。

それがかなりの快感であることは想像に難くないだろう。

そこまで気合を入れて勉強をしなくてもテストの点数は安定していたので、勉強に精をだすことに意味を見出せなかった。

別にその時は勉強が楽しいとは思えなかったし。

今思えば中学生の時点で勉強の楽しさを見出していた他の生徒と僕の間では色々と大きな差が生まれていたのかもしれない。

とにかくこういった考え方が僕の傲慢さを肥大化させた。


次第に僕は自主的に勉強することがなくなった。

勉強をやって高得点を取ることが馬鹿馬鹿しく思えたし、勉強なしでもいい点数は取れると高を括っていた。

それか今思えば、努力したうえで失敗することが怖かったのかもしれない。

現状における自分の限界を直視したくなかったのか。家族や友人の期待を裏切るのが怖かったのか。

様々な感情や思い込みが混ざり合い勉強することを避けがちになっていた。



このマインドが高校受験当日まで続いた結果、第一志望の公立高校には落ち渋々私立の男子校に入学することになる。

とてつもなく悔しかった。

そもそも努力してない人間に悔しがる資格があるのだろうか。

一緒に同じ公立高校を受けた5人の友人は全員合格していた。

つまり落ちたのは自分だけ。

俺の方が頭いいのになあ、とかいう負け惜しみを心の中で幾度となく反芻する。

合格した友人らの同情と哀れみで合格発表日の帰路がとてつもなく気まずかったことはかなり強烈な記憶で、未だ脳裏に焼き付いている。



その時の悔しさが忘れられなくて、高校二年生の後期から勉強にのめりこんだ。

ちなみに高校二年生の後期まではそんなに勉強はしてなかったかな。

なんとなく気持ちが切り替わらなかったのである。

とりあえずその悔しさが勉強に向き合うきかっけをくれたのは間違いない。

向き合う中で勉強の楽しさにも大切さにも気づけたわけで、これは高校受験の苦い思い出がなかったら知りえなかったことだと思う。

結果的には現役で早稲田大学に合格できたので、僕としては満足のいく結果に終わった。



思うに、人はなにかしら苦い思いをしなければ物事に本気で取り組むことができないんじゃないか。

少なくとも僕はそうだ。

多かれ少なかれそういった苦しみを味わなければいけない人間の生ってやつはつらいどころじゃない。

俗世から解脱しようとしていた昔の坊さんらの気持ちがわかる気がする。





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