発音が良すぎる故の羞恥心。
突然だが僕はかなり英語の発音がいい。
自慢がしたいのではなくただ僕に関する事実を述べているだけなので、英語が不得意な人がこの記事を読んでもどうか不快にならないでほしい。
小学生のころにアメリカの学校に通っていたことが発音の良さの原因だろうが、ほんと親には感謝している。
しかし、この発音の良さが生きることへの足枷になることだってある。
小学校4年生のころに日本に帰ってきて僕は地元の小学校に通い始めた。
その小学校では5年生のころから英語の授業が始まるらしく、クラスのみんなは未知の授業にかなりソワソワしていた。
英語に自信があったから英語の授業なんて余裕だと思っていた節がある。
授業形態はALTと英会話を交えながら進めていくもので、一人づつクラスの前で英語を話す機会もあった。
僕はアメリカにいた時と同じような発音と抑揚で英単語を発する。
しかし、クラスの反応はどうだろうか?
完全にシラケてしまったではないか。
僕が初めてみんなの前で披露した特技に唖然茫然。
静まり返ってしまったのである。
当時のクラスメイトが何を考えていたかは皆目見当がつかないが、一種の疎外感を僕が覚えたことだけは鮮明に覚えている。
恐らくそこに悪意はない。
「英語の発音の良さを見せつけやがって」と悪意のある沈黙もあったのかもしれない。
しかし、それは一方的な憶測の領域を出ることはないだろう。
英語が原因で実際に悪口を言われたことは今までにないからだ。
しかし、疎外感を感じたの事実であり、それは恐らくクラスメイトの反応の薄さと自分の異質さを明確に感じ取ってしまったことにある。
そのころから日本人の前で流暢な英語を話すことに抵抗感を抱くようになった。
中学にあがってから英語教育の割合はもっと増える。
クラスの前で英語の教科書を朗読するときだって日本語英語で乗り切った。
もったいないと思うかもしれない。
せっかく英語が得意ならそれを大勢の前で見せつけるべきだろう、アメリカの友人がその場にいようものならそう訴えかけてくるに違いない。
もうその友人とはかなり疎遠になったが。
この居心地の悪さは忘れたくても忘れられない。
流暢な英語を話すと教室が静まり返るあの感じ。
きもちわるい。
大学に入ってやっとそういう感情も薄れてきた。
帰国子女だったり、外国人だったり、そういう似たような境遇の人たちがたくさんいるからだ。
しかし、いまだに純性日本人の前で流暢な英語を話すには少しばかりの勇気がいる。
そういう謎の羞恥心は早く払拭すべきだと自分でも自覚しているところだ。
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