「町の仮想長屋」

飲食店が町の仮想長屋になる。

新店舗を出店する目的
これをご覧くださっている方に共感し応援して頂くために、この場を借りて発信いたします。
このクラウドファンディングと私達の事業の目的は、

①飲食店を出店することで雇用を生む事。自分の人生を自分で経営出来る人、主体的に生きる人を増やすこと。

経営者とならずとも、全ての人が自分自身の人生を経営している経営者といえます、その気付きは人を人たらしめるほどの大切な視点だと考えます。飲食店の運営を通じて若者が主体的に生きることができる社会にすること、これが私が飲食店、特に個人店を増やしたいと思う動機です。

②飲食店の営業を通じてコミュニティーを創出し、多様な人間関係、信頼関係を立体的に構築すること。

どんな些細な事でも相談できたり課題を共有できる友を作り、そしてまた頼ることができる多様な人との繋がりを沢山持つことができる、そんなしなやかな共生社会を創ることが目的です。

現代社会において多くの人々がその様な場所とサービスを潜在的に本質的に求める気持ちがあるのではないか? という仮説は、多くのビジネスにおいてもこれからの社会にとってもとても有効で大切な視点だと考えます。
人々の日常生活をより生きやすく幸せなものにするために、その一助となる仕組みと仕掛けを町の飲食店がお料理と共に提供いたします。

月並みな言葉ですが人はひとりでは生きていけません。
誰もが多くの人々と関わりながら信頼関係を築き誰かを助け誰かに助けられながら生きています、臆さずにそして構えずに誰かに相談したり頼る事が出来るそんな人間関係を生活圏内に持つことがセーフティネットとして社会的な役割を果たすと思っています。
人と人が緩やかに自然に繋がることが出来る仕組みと機能を備えた場所が必要で、多くの人々の潜在的なニーズがあると想像します。これがビジネスとして考えても有効な視点だと考える所以です。
ですのでこの仕組みをデザインすることがこれからの飲食店経営の大切な要素であるとともに、飲食店が担うことが出来る社会的な役割の一つだと考えます。

コンセプトをコーヒーと中国料理の共通点から導き出す。
日常的に美味しいコーヒーが飲みたいというニーズは必ずあると思っています。
コーヒーは家庭でも自動販売機でも飲むことはできますが、ちゃんと美味しいコーヒーとなると家庭ではそれなりに手間がかかるし自動販売機では少しばかりもの足りない、手軽にいつでもどこでも美味しいコーヒーが飲めたらいいな、という潜在的ニーズをネスプレッソとセブンイレブンが形にしました、その後の隆盛は皆さんもご存知の通りです。

中国料理も同様に考える事が出来ると私は考えています、日常的に町中華で食べられる様な野菜たっぷりの炒め物やラーメン、ごはんのおかずとしてもってこいの麻婆豆腐、からあげもチャーハンも、毎日ではなくてもふと思い立った時に必要十分の美味しい中華が食べられる店が生活の動線上にあったら、そしてその店が皆さんのセカンドダイニングとして使い勝手の良い機能を備えていればいかがでしょうか、普段使いにちょうどいい日常に寄り添う店。
日高屋、王将、東秀、幸楽苑、バーミヤンなどチェーン店の隆盛を見てもその底堅いニーズがあることは確実です。しかしながら、女性だけで、またデートでは使いにくいと感じる方は少なくないのではないでしょうか。
これを私はコーヒー業界に例えると、セブンイレブンがあってスターバックスが無い状態だとみています。
富裕層に向けた高級路線のレストランかあるいは安価な大衆店か、ターゲットと価格の設定が難しい昨今ですが、富裕層にも必要十分のクオリティーで、普段は安価なチェーン店を利用している層にも価格分の価値を十分に感じて頂ける商品と空間を提供することで、幅広い層に受け入れて頂くことの出来る今までありそうでなかった店を創ります。
これは前述②にある立体的なコミュニティーを構築するために大切なポイントですので、ここは空間作りの工夫に加えて仕組みと仕掛けを施し必ず実現させます。その内容と手法についてのアイデアについては後述させて頂きます。
また参考店舗として私達の既存店(高井戸麻婆TABLE)をあげさせて頂きます。
 ※麻婆TABLEでは月に2回、誰でも参加でき、皆んなで「いただきます」をする地域食堂を開催しています。

①飲食店経営からみる多様性の大切さと、人が自立するということ。
出店の目的について二つの視点からお伝えしたい事があります。
ひとつめ、
私は独立して7年目の飲食店経営者です。
経営者となって得た思考の変化が人生にもたらした影響は計り知れません。
自分の店を持つと当然ですが経済的に成り立っていく必要があります。
最初の頃は仕事をしてお金を稼ぐことを、お金を循環させているイメージを持っていました。
それがいつしか、
人が仕事をする目的はお金?
人生において価値のあるものとは?
その価値を生む仕事とは?
お金と価値は何かが違う。
こんなふうに考えるようになっていきました。
開業当初は(これは今でもですが、笑)売上げが気になったり、インターネット上の書込みを気にしたり。今振り返ってみるとその表層的なものに一喜一憂することに疲れてしまって、思考の中に逃げ込んでいたのかも知れません。

今日の売上げを作ることは重要です、商売ですから当たり前です。しかしながら将来の売上げを作ることはもっと重要です、今日一日、今月一カ月の目先の売上げを作るために手段を間違えてしまうとその先にある未来の売上げを作ることが難しくなっていきます。
当たり前ですが、今日稼ぐ事よりも持続可能な稼ぎ方が出来るかどうかが大切だということです。
この気付きは重要で、何故なら稼ぐことよりも稼ぎ方を突き詰めていく事で自分らしさと強みに気が付けるからです。別の言い方をすると、
稼ぐことは技術、稼ぎ方は人それぞれの個性と理念、生き様です。
「あなたらしいお金の稼ぎ方は?」
言われたままに求められた仕事をしてお給料をもらう、会社の利益とクライアントの意向を優先するがあまりエンドユーザーから目を逸らし自分の良心に蓋をする。
お金の魔力に屈し会社に飼われていませんか?
胸を張れる仕事をすることは大切なことです。
お金の稼ぎ方にあなたらしさ、個性と強み、仕事に対する“思い”はありますか?
仕事においても人生を主体的に生きていると言えますか?
昨今では組織によるコンプライアンス守ることを重要視されます、だけれどもそれが誇大化した社会通念と相まって“べき論”を増長させ、個性と主体性を奪ってそしてまた奪われることになっていないでしょうか?
飲食店ならこうあるべき、従業員なら、経営者ならこうあるべきだ、このように在りたいという事は自分自身が考えるべきことです。しかしながら、飲食店ならこうあるべき、経営者ならば、従業員ならこうあるべきと言ったふうにその主体性を社会の空気に委ねることが当たり前になり忖度という言葉が流行る。その結果、多様な個性が尊重されるべき場面でも堅苦しさ、息苦しさを感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
仕事をしているあなたの背中は?
働き方がその人の生き様だと思う所以です。

私はどうしてこうなんだろうと自分の能力や資質の低さに絶望することがあります。
たった一回だけご来店されたお客様が他の店と比べてどうだとかネット上にコメントを残されることもよくあることです。そのたった一回にパフォーマンスが発揮出来ないこともあります。
そして私は批判を受け取るのです。
私は完璧な人ではありません、如何ともし難い至らないところが沢山あります。ですが少しくらいはが秀でたところもあるはずです、これは私だけでなくこのようなことは誰にでもあることだと思います。障害のある方も自分が健常者と思っている方も、その間にはグラデーションがあり個性があり差があり揺らぎがあり、そして今に至る過去からの連続したストーリーがあります。
その瞬間を切り取ったくらいではその人やその仕事の本質には近づけません。
大切なのはその背中、本質です、その人の物語が重要はずです。
こうして私は現代社会に生きる上で表層的なものに一喜一憂するのはやめよう。
毎日自分にそう言い聞かせるようになりました。

人生の多くのリソースを捧げる事になる仕事を通じて自分らしさを言語化し表現することは大切なことだと思います。
その反対に、自分を殺して努力とは決して思えないような我慢をして、その対価としてお給料を頂き折り合いをつけるといった状況に陥っていないでしょうか。
私は、持続可能な未来を創る仕事は個性と多様性と主体的に生きようとする意思に宿ると思っています。
現代社会において私が肌感覚で問題意識を持つのはこのような理由があるのです。

持続可能な社会のために、
人生の経営者を増やすために。


②社会課題と飲食店
ふたつ目の目的。
私のような団塊JR世代が後期高齢者になる25年後、その頃には人生100年時代が当たり前の様になっているはずです。
にも関わらず高い確率で介護保険制度が破綻すると言われています。
そこで皆さんに問いかけたい、
ご自身やパートナー、またご両親といった大切な存在が後期高齢者となり、その大切な人を支えるためのリソースが足りないという現実と向き合う時、何を考えどう行動されるでしょうか。
おそらく富める高齢者とその家族は介護サービス従事者を雇うことになるのでしょう。
その時、皆さんはどの立ち位置でその社会と向き合う事になるのでしょうか。
人生の締めくくり、終活をどの様な場所でどの様に迎えるのかは全ての人にとって大きな関心事だと思います。
私は、生きる事に不安と寂しさが付きまとう確実にくるその日に、孤独を突き付けられることはあまりにも辛いと考えています。いくら目を背けようと、また考えない様にしても老いる事とその先にある死から逃れる事は出来ません。
そうであるならば私は、新しく産まれてくる子供達の存在を知り、その成長を感じ自分事として喜び、自身の老いを肯定する、そしてその先にある死をも受け容れる、その様に在りたい。
多くの方にこの考え方に共感して頂けるならば、そしてそれが可能となる仕組みが社会に実装されれば、超高齢化社会に生きる人々の代え難い救いになると考えています。
しかしながら昨今の核家族が当たり前の様に浸透した現代日本社会において、高齢者は常に忙しく決して豊かではないであろう実の子供達に迷惑を掛けられないという理由で頼る事を憚るようになってはいないでしょうか。
だからこそ、自分よりも若い世代の人達の成長を自分事として喜びに変えていくためには、戸籍上の家族に拘らず、地域社会との関わりを積極的に作っていく必要があり、その仕組みが必要だと考えています。
繰り返しになりますがその仕組みの一端を担う場所、コミュニティーと繋がり、人それぞれが緩やかな信頼関係を築き、助け合える社会を創出する。
それが私の考える飲食店。
町の仮想長屋と題したこれからの時代に必要とされる地域の飲食店の在り方です。

食べることと老いること。
自身の老いを思い知らされるのは食べる事だと、今は亡き私の父がよく申しておりました。
食べる量が減り、食べられる物が減り、さらに一緒に食べる相手まで減ってしまうとあっては楽しみであったはずの食が残酷なまでに老いの寂しさを突き付けてくるのだと。
私は妙に納得しました。
料理の道を志して30年、私の人生は “美味しいとは何か“  をずっと考えて来た人生でもあります。
私は料理人として凡庸で、所謂超一流店から離脱した過去があります。
それでも私は料理が好きで、レストランが好きで、接客が好きでした。

美味しいとは何か?
特別な日をさらに特別なものにする様な、スペシャルな料理を作ることは叶わなかった私ですが、
人々の営みと日常に寄り添い、人を癒し笑顔にする料理を心がけるようになりました、そうしていく中で得た気付きがあります。
それは、美味しく食べることの重要性、すなわち物(料理)ではなく行動(食べる)と環境(誰とどこで)に意識を向ける事です。
味わうこと、料理は景色や物語と同じです、味わうことで意味をなします。
人は食べずには生きられません。
であるならば美味しく食べることをもう少し深掘りして考えてみるべきではないでしょうか。
美味しいとは誰と食べるか、個食が当たり前となった現代社会においては自分自身と属性の異なる多様な他者に対して興味が持てるか、優しくなれるかが重要なのだと考えます。
地域の人々が集い食事をする町の飲食店に、食事を味わうための仕組みと仕掛けをデザインすることの重要性とその可能性を少しはご理解いただけましたでしょうか。

未来を担う若者と仕事をどう考えるか。
誰しもがいつか社会に出て、仕事を通じて社会と関わっていく中で、自分が何を成そうとしている何者であるのか、自分自身の価値や生きる意味を考えさせられること、そんな機会が訪れるものだと思っています。
職業に貴賎はない、と言われます。
長く資本主義が当たり前になった世の中で、気が付けば格差社会と言われるように人々の所得と蓄財に差が生まれ、さらにその財が複利を生み、またその差がさらに大きく広がっています。
職業に貴賎はない。しかしながら、当たり前ですが職業と職種と能力によって所得に差が生じます。
多くのみなさんがしている仕事は何のためにするものなのでしょうか、
生活のため生きるためにお金が必要だから、世の中の誰かの役に立ちたいから、暇だから。
理由はそれぞれでも人生の有限で大切な時間の多くを仕事に捧げているという事実は変わりません。
人が仕事をする理由を私はこう考えました、
仕事はお金を稼ぐためでもなく、人生は仕事をするためにあるというほど暇な訳でもなく、
人は社会との関わりを求めて仕事をしているのではないかと。

人は人と社会とより良い関わり方を求めて生きている。
社会の構成要素は人です、人は己を映す鏡だといわれます、だからこそ人は仕事をして自分自身を思い知る、そのきっかけを得ることによって自分とは、生きるとは何かを考えるのではないかと。
だけれども、答えはなかなか見つからないものです。
これはニワトリと卵と同じで、社会と、沢山の方々と繋がりを持つことこそが生きることそのものだからです。
その繋がりの質をより良いものにすることは、より良く生きるということだと思っています。
どのような仕事であったとしても、人は社会と他者との繋がりをより良い関係にするために仕事をしているでは?
と仮定してみてはいかがでしょうか。
仕事の本質はお金儲けではなく、社会との関わりをより良いものにすることなのでは?
という事に気づくことが超格差社会を生きる人々にとっての救いとなるはずです。
それぞれ一人一人がより良く社会と関わっていけるかどうかを意識して仕事と向き合うことでより良い社会が生まれ、それぞれの多様な個人が主体的に生きるより良い人生がまた、より良い社会と共生していく気がいたします。
私はそんな好循環を生む仕組みを飲食店経営を通じて社会に実装していく事を思い描いています。

超高齢化社会と格差社会、高齢者と若者、そこにある分断。
飲食店経営においてどの層のお客様にお越し頂くのかを想定することは大切な事だといわれます。
価格設定一つをとっても、どの層をターゲットにするかによっても適正価格が違ってきます。
一億総中流社会が終焉を迎え、既にそこにある分断社会に自分自身の居場所がどこにあるのかを探した時、私には多くの皆さんが知らず知らずのうちに分断の淵に立たされている様にみえます。
超高齢化社会と格差社会、高齢者と若者、貧富、そこにある分断。
その町の人々が営みの中で幸せと安心を感じるために、社会(その町)との関わりを持とうとした時、優しく緩やかに町の人々に寄り添える場所。
それがこれから迎える時代の一つの飲食店の在り方だと感じています。
前述の多くの方(特に後期高齢者と支える家族、格差社会における貧困と若者)の救いとなるかも知れない気付きを飲食店運営を通じて実践いたします。

異なる多様な他者への興味と敬意
社会とのより良い関わり方の模索
町との関わりに本質的な価値を見出す

しなやかに緩やかに助け合えるコミュニティは大切な資産。
コミュニティ形成への積極的な投資が必要です。その投資は余剰のリソースで良いのです。
人と人を繋ぐハブとしての仮想長屋になる。
その価値を創出する事が出来る可能性に満ちた仕事。
飲食店を増やす大きな意味がここにあります。

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