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物語の終わり 絢辻詞の帰省

※アマガミの二次創作です。
※心の壊れた絢辻さんが姉に介護されるという話です。特に悪意を込めたつもりはなく、絢辻さんはアマガミヒロインの中でも好きな方で、唯一無二のパッケージヒロインだと思っていますが、少しでも不快に感じられたとしたら、本文は目にしない方がいいかと思います。あと、本当に申し訳ありませんでした。

1.

 窓辺に並んでいる姉妹は二人ともまるで亡霊のようだった。
 一人は母親の子宮から産み落とされた瞬間に体は外界にあるのに心は母胎に置き忘れてしまったようで、完全に現実を超越しており、いつの間にか自分が孤独であることも忘れていて、30代を目前にしているにも関わらず童女のように無邪気な笑みを浮かべながら妹の髪をすいていた。妹の方はというと、瞳は焦点を失っていて、口は半分開いたまま、白痴のようにうつろな表情を浮かべながら、自分の人生に定められた宿敵として忌み嫌っていた姉に、かつてあれほどまでに気を遣ってケアしていた髪の毛を気ままに弄ばれているにも関わらず、その表情に感情の波紋が浮かぶこともなく、恥辱に満ちた過去と報われない努力を積み重ねる痛みに疲れ果てて心を捨ててしまったのか、姉と同じように現実を超越した世界に置いてしまったのか、体の奥深くに閉じ込めて蓋をしてしまったかのようだった。
 窓の外は晴れ渡っていて、薄いレースのカーテン一枚を隔てて挿し込む光に照らされた、黒く艶やかな髪を伸ばした姉妹は人形のようで、単純に、今この瞬間を一つの風景として見れば美しい光景に見えただろう。
 妹の髪をブラッシングするのに早くも飽きつつあった絢辻縁は窓の外を見て、眩しさとあたたかな陽射しの心地よさに目を細めた。そして、いい天気だね、と社交辞令のような会話のボールを妹に投げたが、妹から反応が返ってくることはなかった。それが、まだ妹の心が少なくとも現実にあった昔のころであれば、素気無い反応にため息も漏れたであろうが、今の縁はむしろ嬉々として思いつくままに、ほとんど前後の脈絡もなく、支離滅裂に会話のボールを投げ続けていた。言葉を投げかけてあげることが大事なんです、という医者の言葉を思い浮かべながら。もちろん医者は姉妹にまつわる因縁ーーほとんど妹が一方的に自分に課せられた受難のように思っていた因縁のーーその歴史について、何も知らなかったわけだが。
 「ねえ詞ちゃん、桜を見にいこうか?」
 言葉をほとんど自動的に紡いでいるうちに漏れた提案に、発した縁自身が驚いていた。そして何も答えない妹を差し置いて、自分の無意識が差し出した提案に満足し、それはいいアイディアだ、ぜひ実行に移そう、すぐに行こう、と承認の判を捺して、髪をすくために使っていたブラシを投げ捨てて、慌ただしく準備をはじめた。たしかに、ちょうど桜の花が開く季節だった。念願かなって家を出た絢辻詞が、変わり果てた姿で実家に連れ戻されてから、一年あまりが経った春で、気持ちのいい青空が広がっていた。もう二度と戻るものかと、実家に背を向け、新しい一歩を踏み出した詞が見上げた、あの時の空と同じ色だった。

2.

 車輪がカラカラと、安いおもちゃの破片が風でころがされているような音をたてて回っている。詞の乗った車椅子は陽射しを反射して明るく光り、それを押す縁は上機嫌で、鼻歌すらうたっていた。平日昼間の住宅街には幸いにして人気もなく、詞と縁の両親が懸念したような事態ーー娘の「みっともない」姿が注目を浴びて、「ご近所さん」の指を刺されて笑われるような事ーーは起こりそうにもなかった。
 「ねえ詞ちゃん、なんだか懐かしくない!?」
 両親の悩みなど何も気にしていない縁は無邪気に、さも詞の心ではなく、耳に問題が起きてしまったとでもいうように、必要以上の大声で言葉をかける。今、二人が進んでいるのは、かつて詞が「天下無敵の優等生」として名を馳せていた輝日東高校への通学路だった。輝日東高校にも桜並木があること、そして詞の閉じた心の刺激になればという、縁なりの心遣いも込められていた。
 「............」
 しかし、詞の瞳は相変わらず虚で、そこには光を吸い込む闇しかなく、自分がどこにいるのかすら分からない様子だった。縁はとくに落ち込む様子もなく、言葉を続けた。
 「そういえば、学校から帰る詞ちゃんと偶然会うこともあったよね」
 だが、縁の言葉はそこで不意に途切れた。下校中の詞と出会うことは確かにあったし、その流れで(縁が一方的に)帰り道を共にすることもあったが、決まって詞との会話は全く弾まず、縁が何を言っても無視に近い対応をされていたといっても過言ではなく、思い出話に花が咲きようもなかった。
 結局縁は黙ってしまい、またカラカラと車輪の回る音だけがあたりに響いた。それは、足音が車輪に変わり、「天下無敵の優等生」が、詞の父親の言葉を借りれば「人生の落伍者」に堕ちた以外は、いつかの気まずい帰り道を再演したかのようだった。
 ......いつから、私は詞ちゃんに嫌われちゃったんだろう?
 すんでのところで口から漏れそうになった疑問を縁は心の中で呟いた。
 幼い頃、といってもまだ詞が小学校にあがる前までは仲のいい姉妹であったと思う。詞はすぐに姉のやることを真似したが、縁にとっては不愉快でもなんでもなく、むしろ自分の小さな分身に愛おしさすら感じてた。今朝のように、詞の髪を梳かしたことも、昔はしょっちゅうしていた記憶がある。いつの間にか、姉(ないしは他の家族)に対する詞の態度は反抗的になり、生来のんびりとした性格の縁は時間が経てばいずれ落ち着くだろうと思っていたが、詞が高校生になる頃には無視されるようになり、ついには言葉も通じないようになってしまった。なぜ、ある時期から詞が急に反抗的になったのか、それは詞にとって姉の真似をするということが、(詞によれば)自分の存在意義に関わる切実な意味を持ち始めたからだが、人とは違う現実に生きている縁には察することも、理解することもできなかっただろう。もう二度と分からない疑問は、縁の痛みや疑いをまるで知らない心に小さな傷をつけていたが、まだ今の縁にはその意味までは分からなかった。

3.

 学校の前の坂道、見るに見かねた心優しい初老の女性に声をかけられながらも、絢辻縁はなんとか自分の力だけで、20代後半になる妹を乗せた車椅子を押しあげて、校門の前に辿り着いた。汗ばんだ額を二の腕で拭い、前を向くと、そこには、以前とまるで変わらない学校の姿があって、その佇まいにも縁は胸打たれたが、見事に満開に花を咲かせた桜の木々の美しさには、毎年場所は違ったとしても同じ花を見ているにも関わらず、例年の通り、感嘆の息が漏れた。
 「綺麗だね、詞ちゃん......」
 縁はなんとなく妹の手をにぎったが、その冷たい手には反発も緊張もなく、にぎられた形に大人しく歪み、詞が果たして桜や母校を見ているかどうかも怪しかった。
 高校は春休みで通学する生徒こそいなかったが、部活動のために顔を出す生徒が時折いて、校門の前の浮世離れした、美しい姉妹に対する好奇を隠しきれず、こそこそとその側を通り過ぎることもあった。
 縁は特に気にした様子もなく(気づかなかっただけかもしれないが)、むしろ自らも大いなる好奇心を以って生徒の姿を眺めていた。黒を基調としたフォーマルな制服を見ていると、縁はたまらなく懐かしい気持ちになった。詞も同じではないかと視線を下げると、相変わらず何にも反応しない詞がいて、さすがに縁は苦笑した。そして、その弛緩した表情と、かつて詞が高校生だったころ、人づてに妹が創設祭の実行委員をつとめていると聞いて、こっそりと覗きに行ったときに見た、制服を華麗に翻し、頭にはちょこんとサンタ帽をのせながら、溌剌と指示を出し、動き回る姿を思い出し、比較して、ズキリと胸が傷んだのを、縁もはっきりと自覚した。
 「そうだ、詞ちゃん、撮ってあげるよ!」
 気を取り直すように、縁は大袈裟に言った。そうして詞を桜の樹の前に移動させて、自分は詞の正面に向き合って、距離をとり、最近写真を撮ることに凝りはじめた縁が愛用している一眼レフカメラを取り出して、手際よく構え、構図を探りはじめた。
 車椅子の上の詞は縁が正面にいても微動だにせず、大人しく座っていた。背後には桜の花が咲き乱れていて、縁の足音以外は、風で枝がそよぐ音だけが空気を震わせていた。その光景を見ながら、縁は桜の樹の下に埋まっている死体の話を思い出していた。それは、桜の花の美しさの陰に、土に埋もれ、桜の根に養分を吸われている死体を幻視した、ある作家の短編であったが、縁はファインダーをのぞきながら、なぜその作家がこの美しい桜の花を前にグロテスクな想像を膨らませたのか、分かるような気がしていた。
 昔は頭が良かった詞ちゃん。昔は綺麗だった詞ちゃん。昔は仲がよかった詞ちゃん。あの桜の花は詞ちゃんを殺して花を咲かせているんだ。詞ちゃんは桜に殺されちゃったんだ。
 自分の直感がもたらした他愛もない想像に縁は笑みを浮かべた。現実を超越している縁には、こういった類の突飛な幻想が日常に突然潜り込んでくることがよくあったし、平生の縁はその幻想と戯れ、楽しんですらいた。そしてそんな縁の戯れは社会に認められ、両親や世間は縁を「天才」ともてはやしていた。
 今、縁は、桜の根に絡まれて生気を吸われる詞のヴィジョンを眼前にして、微笑んでいた。しかしその微笑とは裏腹に、ボタンに添えた指は震えていて、シャッターを切ることができなかった。構図もカメラのピントも露出もシャッタースピードも、すべて決まっているはずだった。シャッターチャンスを手中におさめながら、ボタンを押すという、ただそれだけのことができなかった。自分の見た幻想よりも、その事実に縁は戸惑った。
 いつの間にか、校門の前に数人の生徒がたまって、縁たちの方を見ながら話をしていた。その明らかに怪訝そうな様子に気がついた縁は、流石に不穏な気配を感じ、撮影をやめて、詞を押しながら、学校の前を去った。

4.

 打って変わって、帰り道の縁は沈んでいた。自分がなぜシャッターを切ることができなかったか分からず、こうなると、どうしても詞と桜をからめた写真が撮りたくなった。しかし、学校へ戻るのは億劫だと、うじうじ迷っているうちに差し掛かった鳥居の前で、ふと、何かを思い出しそうな気がして、縁は足をとめ、しばし思案した後に手を打った。そういえば、この神社の境内に咲く、二期桜の話を聞いたことがあった。ということは、今も桜の花が咲いているはずだ。縁は早速、神社に向けて詞と車椅子を方向転換させて進み出した。
 境内まで車椅子の詞を運ぶのは学校の坂道以上の重労働で、ほとんど死にものぐるいになりながら、なんとか無事に到着することができた。さすがにすぐに撮影をはじめる気になれず、神社の縁側に腰をおろして、体を休めることにした。顔をあげると視線の先に桜の花が咲いていて、とりあえず自分の閃きに間違いがなかったことに安堵しつつ、ぼーっとしているうちに、疲れから、うつらうつらと縁は船をこぎはじめていた。頭の片隅で、詞ちゃんから目を離しちゃダメだ、と考えている自分がいたが、抗いがたい睡魔が次第に縁の意識を蝕み、ついには縁を夢の世界へと誘った。
 夢の中の縁は幼い子供だった。目の前には七面鳥やホールケーキなど、豪勢な料理が食卓を埋めていて、そこに縁の嫌いなものは何一つとしてなかった。両親はニコニコと穏やかな笑みを浮かべていて、その笑顔を見ていると縁も平和な気持ちになった。父親がふと腕をあげて指をさした。振り返って指をさした、その先をみると、色とりどりのオーナメントで飾られた大きなクリスマスツリーがそびえたっていた。
 そうか、今日はクリスマスなんだ。
 なんの疑問もなく、その事実を受け入れた縁はクリスマスツリーへと駆け寄った。そうすると、クリスマスツリーの下に箱があることに気がついた。箱を覆う包装紙とリボンが縁の心を浮き立たせた。それは、サンタクロースから縁に贈られた、プレゼントであるはずだった。
 縁は大慌てで、リボンをほどき、包装紙も構わずに乱暴に破り、蓋を開けると、中には10代後半の、ギリギリ少女といっても差し支えのない、美しい女性がおさまっていた。その少女は自分にそっくりな顔と、長い黒髪をしていたが、その目は、はっきりと自分に対する敵意に燃えていた。
「妹だよ」
 幼い縁の小さな方に手をのせて父が言った。その言葉を聞いて、縁は目を輝かせた。ずっと欲しいと思っていた。自分にそっくりな、人形のように可愛い妹が。
 箱から妹を取り出そうと、縁は手を伸ばした、妹は縁を鋭く睨みつけたが、何も言わなかった。それにしても、この箱は大きいことは大きいが、人を収めるには小さすぎる。一体どんな構造になっているんだろう? そう思った縁だったが、別に箱そのものに不思議な仕掛けが施してあるわけではなかった。ただ、妹の四肢が欠けていただけだった。縁はまじまじと、その妹の顔と体を眺めていたが、持ち上げ続けることに疲れ、妹をおろそうとした。しかし、地面に置くにしても、自立するための足がないから転んでしまうだろう、どうしようと思っていた縁だったが、すぐそばに車椅子が置いてあることに急に気がついて、妹を抱きかかえながら運び、その座席の上へできる限りそっと降ろした。幸い、妹は転ぶ様子もなく安定していた。妹は相変わらず不機嫌そうな顔をしていたが。縁が欠けた四肢の「根」にふと目を向けると、その部分が大きく窪んでいることに気がついた。まるで、何かが、そこに収まるために窪んでいるとしか思えなかった。縁はキョロキョロと辺りを見渡したが、自分が破り捨てた包装紙やリボンしか散らばっていなかった。そういえば、いつの間にか、ツリーも、料理も、両親の姿もなかった。先程までの、温かい空気はなく、辺りは静かな闇に包まれ、その中で縁は体の不自由な妹と二人きりで取り残されていた。
 縁は、まあ、いいか、とすぐに気をとりなおした。今の縁はサンタさんからもらったプレゼントのことで心がいっぱいだった。別に、四肢がなくても別に気にならなかった。むしろ、四肢がない方が美しく見えた。
 でも、妹の顔がずっとしかめ面なのが気になって、縁は固く強ばった頬に手をのばし、無理矢理に口角をあげようと力をいれた。妹はいやいやをするように大きく首をふり、その手から逃れようとした。しばらく攻防はつづいたが、突然妹の様子が変わった。それまで、右に左にふっていた首が急に、縁の真正面を向くように据わった。先程まで冷たく鋭い光を放っていた瞳は、爛々と輝いていたが、それは喜びや楽しみによるものでなく、狂気に近い光に見えた。そして妹は大きく口を開けて、叫び声をあげはじめた。縁は思わず手を離し、びくっと体をすくめた。妹は縁を真っすぐと視線で刺し、明らかに縁に向かって叫んでいるようだった。まるで怪鳥のような、耳障りの悪い叫び声だった。何かを嫌がっているというわけでもなく、ただひたすら無表情で、まるで大きく口を開けて声帯を震わせる運動に没頭しているかのようだった。幼い縁はぶるぶると震えながら、叫び声をあげる、その物体を眺めていたが、視線を外すことはできなかった。

5.

 現実にもどった縁がまず意識したのは、頬の冷たさだった。次にぼんやりと板張りが見えて、寝ぼけた頭で記憶の糸をゆるゆると辿り、自分が神社で居眠りをしてしまったことに気づいた縁だったが、夢の中で聞いた叫び声を耳にすると、ぎょっとして、思わず飛び起きた。
「詞ちゃん!?」
 あたりを見渡すと、倒れた車椅子が目に入ったが、その上にいて然るべきである妹の姿は見えなかった。しかし、車椅子が倒れた先には、何かをひきずったような跡が残っていて、縁は迷わず、その跡を追い、神社の角を回った。そこには詞がいて、地べたに腰をおろし、一心不乱に手を動かしていた。口からは時折、くぐもった奇声が漏れていた。初めは戸惑って立ち尽くしていた縁が、自分に発破をかけ、恐る恐る詞の正面へまわり、手元をのぞくと、詞は手で地面を掻きむしっているところだった。何をしているんだろうと興味をそそられたが、詞の指が真っ赤になっているのを見て、急いで止めた。詞は縁の腕の中で暴れたが、しばらくすると疲れたのか大人しくなった。縁は詞をその場に残し、急いで車椅子を運んでくると、再びその上に詞を置き、妹をまるで拘束するようで、抵抗感から外しておいた安全ベルトで詞の体を締め付けた。そうして詞の土に汚れた手を水で拭き、腫れはあるものの、傷や出血がないことを確認すると、ほっと胸をなでおろし、詞が先ほどまでにいた場所を見ると、中途半端に掘り進められた穴のようなものがあった。あそこを手で掘ろうとしていたのだろうか? 縁はすぐに、土に埋まった宝の場所を知られる犬のことを連想した。穴を見続けていると、いてもたってもいられなくなり、また何より、詞が激しい反応を示したことに大きな好奇心がわいた。
「......ごめんね」
 心の中では妹のためだからと断りをいれながらも、謝罪の言葉を漏らすと、縁は境内にもどって手頃な大きさの石を拾い、穴を掘りはじめた。妹が叫び出すのではないかと不安だったが、幸いおとなしいままだった。もしかしたら、自分の体が壁になっていて、穴を掘っている手元が見えていないのかもしれないと思いながら、なるべく体を動かさないように意識しながら、土を削っていると、明らかに人工物のようなものの切れ端が見えて、思わず「やった!」と声をあげそうになった口を慌てて閉じた。その切れ端の周りを中心に掘り進めていくと、それはファスナーがついた、プラスチックの保存袋であることが分かった。保存袋をつかんで、ずるずると引き上げて、表面の土埃を払うと、中に小さく、黒い、四角形の物体が入っているのが見えた。
「......?」
 縁は首を傾げながら立ち上がり、詞の方に向き直った。詞は縁が手に持ったものを確実に目で捉えたはずだったが、一瞬、その瞳に夢の中で見たような激しい狂気の光が宿ったかに思えた以外に反応はなかった。縁は神社の縁側に腰をおろし、ファスナーを開けて、中身を取り出した。
 それはどうやら手帳のようだった。黒一色の、見たところ、何の変哲もない手帳だったが、その色は先ほど目にした、黒を基調色にデザインされた輝日東高校の制服を縁に連想させた。
 「…..お姉ちゃんが、開けても、いいかな?」
 何となくこの手帳が何なのか理解しはじめていた縁は、一応「持ち主」に確認をしたリアクションが返ってくることはなかった。嫌がるそぶりもなかったことから、それを了承の意と都合よく受け取った縁は手帳の表紙に手をのばした。そこには、今まで何も分からないまま、いつの間にか嫌われて、いつの間にか壊れていた妹の心の本当の声が眠っているはずだった。緊張で固まった指に力を込めてページをめくった。まるで、目の前にあるのは、大きな扉で、今まで押しても引いても開かなかったのが、突如として鍵が外れて、力を込めると番が軋んだ音をたてながら、今まで「開かずの間」として教わっていた部屋に通じる扉が開いて、その先にある光、あるいは闇が、世界を覆っていく、そんな幻想に縁は囚われた。
 表紙の先にあったページには、細く整った几帳面な字で、こう書かれていた。

「私とあたしが生きた証をここに残す」

 縁はしばらく、その文章を前に立ち止まり、その繊細な筆致に込められたであろう意味を色々と考えたが、結局は何も思い浮かばず、次のページへと向かった。
 しかし、その文章はたしかに詞が特別な意味をもって記したものだった。忌々しい過去の呪いを精算して、新しい未来を開くために、テーブルの上で、デスクライトが灯す小さな光りに照らされた、自分が高校生活を通して愛用してきた手帳の、何を書いていいのか分からず、白紙のまま残していたページに、感傷をたっぷりとのせて詞が綴った一文だった。
 手帳は、その後しばらくは詞の予定とその日のちょっとした出来事や反省が書き込まれていて、そこには高校生だった頃の詞の慌ただしい学生生活の痕跡が残っていた。縁を驚かせたことに、その内容の大半は学校行事に関わる仕事や勉学や美容、健康、節制といった話題で占められており、友人や恋人の存在はその片鱗すらなかった。予定の書き込みは、詞が創設祭の実行委員になったことをきっかけに緻密になり始め、12月になると、毎日、時間単位で細かく予定や、TO DOリストや、反省点が書き込まれていた。そして、12月24日という日付の隣には、「創設祭 本番」という文字が赤丸で囲まれていて、気合いのほどが縁にも伝わるかのようだった。そして、翌日、12月25日のページには、創設祭の準備から本番を通した反省点が細かく連なっていた。
 「……詞ちゃんの創設祭は、本当に立派だったし、詞ちゃんは本当にかっこよかったし、可愛いかったよ」
 あの時、創設祭に忍び込んで、サンタ帽を揺らしながら駆けずり回る詞の姿が、いまだに縁の脳裏に焼き付いていた。どうして、当時の詞に自分の気持ちを伝えなかったのだろう? 
 創設祭の反省で占められたクリスマスの後は、予定の書き込みが目に見えて減った。まるで、張り詰めた緊張の糸が緩んだか、憑き物が落ちたかのように、空白の増えたページをしばらくめくっていると、縁の手がピタリと止まった。そのページにも、異常な密度で言葉が書き綴られていたが、予定を書いていたページの丁寧な字とは、まるで異なり、人が変わったかのように荒々しく書き殴られた文字の羅列には、すべて詞の呪詛が込められていた。周囲の不理解、自分の人生に対する悲嘆、理不尽な出来事への不満の爆発、特定の人間を貶めるための手段……洪水のような呪いの言葉の中から「お姉ちゃん」の文字を見つけた縁は心臓が止まりそうになり、この先を読まないほうがいいことは、直感的に理解したが、読み進められずにはいられなかった。
 「お姉ちゃん」に対する詞の呪いは、長かった。
 読み終えた縁は、続きのページを読む勇気もなくして、うなだれた。詞が壊れたことで、答えのでない疑問と共に、縁の心についた傷は今、激痛を伴って血を噴き始めて止まらなかった。もちろん実際に体から血が流れることはなかった。しかし、その代わりに縁の瞳からは涙が次々に溢れていた。
 ……この手帳を埋めた時、詞は自分の未来にどのような物語を思い描いていたのだろう?
 かけがえのないパートナーを見つけ、共に暮らしつつ、愛する人のために甲斐甲斐しく尽くし、手料理を振る舞う、満たされた自分の姿だったのか、子供の頃の詞にグロテスクなほど似た自分の娘を両腕に抱きながら、自らの子供時代には両親から決して与えられることのなかった家族の温もり、ありふれた幸福がこの腕の中にあることを、「復讐」が果たされたことの達成感を噛みしめている自分の姿だったのか。自分一人では燃やすことができず、結局埋めることにした手帳を、いつか、誰かと掘り起こして、中身を開いて、過ぎ去った日々を懐かしみ、自分の青さを笑いながら、それを燃やして、過去を清算することができる日がくると思っていたのか。
 いずれにしても、それは果たすことのできなかった未来であり、終わった物語だった。
 そして実際にその場にいたのは、夢のように幸福な物語に生きる自分でも、怠惰だけれどみんなから愛されるウサギでも、勤勉だけれど誰からも見てもらえないカメでもなく、消えない傷を負った二人の姉妹だった。
 「ごめんね……詞ちゃん……」
 縁がそっと包んだ詞の手の上に涙が落ちた。
 それは、縁が生まれて初めて他人のために流した涙だったが、詞の瞳はすでに光を失い、姉の言葉は伽藍のように虚ろで広い心に寂しく響いて消え、どこにも届かなかった。

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