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Magic! 上崎裡沙の傷心旅行

 アマガミ本編アフター。成人した上崎裡沙が銚子へ旅行に行き、ちょっと不思議な体験をする小説です。
 銚子についての記述などは私が実際に銚子へ行った2018年の情報を基にしているので、現在とは相違があります。
 また、本編に銚子の灯籠流しが登場しますが、これはyoutubeで見たいくつかの情報や、ネットの記事などの情報を参考に書いたので、実際のものとは全く違うかもしれません。すみません。

1.

 「122円が一点、325円が一点……」
 カゴの中に詰め込まれた商品を取り上げ、バーコードを読み取って、表示された金額を読み上げて、商品を袋の中へ詰める。機械的に、淡々と。だけど正確で、素早く。ようやく朝6時……22時からのシフトに終わりが見えはじめ、つい1、2時間前は半ば朦朧としていた意識が、間近に迫る労働からの解放の喜びを前に目覚め、集中力が蘇る。まだ自分の中に生きるための前向きな意志が存在していることを実感できる瞬間。自分の中に、そういう喜びとか興奮とか、前向きな力を生み出すための器官が生きていることが不思議だった。
 「おつかれさまでーす」
 あたしと交代でシフトに入るおばさんが店内へ入り、元気よく挨拶をする。
 「おつかれさまです」
 微笑みながら、あたしも挨拶を返す。ちゃんと笑えていたらいいけれど。


2.

 とぼとぼと帰り道を歩く。さっき感じた束の間の喜びは消え去って、あたしはもう次のシフトのことを考えて憂鬱になっていた。こんな日々がいつまで続くんだろう? あたしはこれから、どうすればいいのかな。何回も繰り返した、重たい問いかけがまた心へ浮かんでくる。
「……ただいま」
 ぼそっと、小さな声で呟いて、実家のドアをくぐる。すると、聴こえてもいないはずなのに、リビングに通じる扉が、あたしの声に応えるかのように開いて、「あ、お姉ちゃん! おかえりー、お仕事おつかれさま!」と妹の真詩がにこにこと笑顔を浮かべて姿を現す。きっと学校へ行く前なんだろう、真詩はあたしがかつて通っていた高校の制服に身を包んでいた。その制服と、そして制服を押し上げて主張する真詩の「あれ」、あたしが手に入れたくて、でもどれだけ努力しても手に入れられなかった「あれ」を目にすると、心が痛んだ。
 もう、ダメだ。
 冴えない労働で疲弊した心に真詩の眩い姿を見せつけられ、とことんダメージを削られ、本当はリビングでお母さんが用意してるであろう朝ごはんを食べようしていたあたしは、予定を変えて、階段をのぼり、自分の部屋へと真っ直ぐ向かうことにした。
 「お姉ちゃん? 朝ごはん、もうできてるよー?」
 真詩の声に返事もせず、背中を向け、部屋へ入り、扉を閉ざした。着替える気力もなく、そのままベッドへと倒れ込む。……真詩に悪いことしちゃったな。あとでメールで謝らないと……。真詩のことは嫌いじゃない。呼び方こそ「ねえね」から「お姉ちゃん」に変わったものの、ずっとこんなあたしをひたむきに慕い続けてくれる真詩はかわいい。なぜか真詩はあたしをとても頭がよくて、なんでもできる、ヒーローのような存在だと思っている。その真詩の中のあたしと、実際のあたしのギャップをあたしが意識しすぎてしまったり、真詩があたしの通っていた高校に入学したり、色々な事情が重なって、最近はうまくコミュニケーションをとれずにいる。……真詩はどう思っているんだろう? そんなことをぼんやり考えていると、さっき目にした真詩の制服姿が心に浮かんでくる。あたしが高校に通っていたときから、■年は経っているけど、制服のデザインは大きく変わっていない。自然と疲れた心は高校時代の思い出をとりとめもなくなぞりだす。でも、そのほとんどは「あの人」の姿だ。「あの人」の笑顔、「あの人」の眼差し、「あの人」の傷ついた姿。そしてあたしを拒絶し、前を向きはじめた「あの人」の優しく、強い表情。隣には美也ちゃんもいたっけ。美也ちゃんは泣きながら怒っていたな。そんなことを考えると、あたしの瞳からはポロポロと涙が流れて枕を濡らしはじめる。あたしはどこで間違えてしまったんだろう? 「あの人」と美也ちゃんは元気にしているのかな?
 「……はっ!」
 気づいたらあたしはG××gleMapであの人の現住所を打ち込み、ストリートビューで建物の外観を観察して侵入経路を確認すると共に、周辺環境を調べ上げ、身を隠せる場所はどこか、車の置き場所はどこか、資材を調達する場所はどこかを調べ上げ、へとへとになって帰宅したはずなのに、あっという間に一時間が経っていた。
 「い、いけない…..!」
 また心が「あの人」への執着で囚われてしまった。あたしは急いで机の棚の中に隠したノートを取り出して開き、胸に手をあてて、中にびっしりと書きこまれた言葉を読み上げる。
 「あたしはあの人に近づかない、近づけない、会えない、連絡できない、大丈夫。あたしはあの人に近づかない、近づけない、会えない、連絡できない、大丈夫……」
 「先生」が教えてくれた呪文を、鼓動がおさまるまで、ずっと繰り返しつづける。でも久しぶりに高校時代と「あの人」の記憶に浸ってしまったためか、呪文を唱えつづけても、ようやく気持ちが落ち着いたのは30分も後になってからだった。今度こそ疲れが臨界点を突破し、あたしは湿った枕に顔を押し付けて、睡魔に心身を委ねる。
 もう限界なのかもしれないな。
 「あの人」を失ってから、あたしの日常、いや世界は一変した。極端に例えるなら今のあたしの世界からは色や立体感が失われて、灰色の、のっぺりとした、豊かさや感動のない、単調な毎日が続いている。これでは、「あの人」を忘れようとしても忘れられるわけはないだろう。
 こじれた思考の糸が、抗えない眠気によってゆるやかに解けはじめたとき、ふと、そうだ、旅行に行こう、と、そんなことを、脈絡なく思いついた。


3.

 「ようやく着いたぁ……ここが……ここが千葉県銚子市なんだ……!」

 某月某日、あたしは自宅とバイト先の往復で形成された小さな世界を飛び出して、千葉県銚子市にきていた。いつかテレビで偶然目にした千葉県銚子市の風景は、不思議とあたしが住んでいる輝日東と似ていて、その時からずっと、自分でもはっきりと理由は分からないけど、いつかはここに来てみたいという強い衝動が生まれていた。
 ……ちょっと駅前でも歩いてみようかな? あたしは車を適当な場所に駐車して、銚子のまちを歩くことにした。

 「骨とだけ書かれた看板だ。整体のお店なのかな? それとも骨を売ってるのかな?」

 「あ、銚子の観光ガイドがあるよ。でも、やんちゃな若者がグラフィックアートのキャンバスにしちゃったみたい」(※2018年の写真です)

 「今度は建物に氷とだけ書かれてる……氷屋さんなのかな? それにしても…蔦の這い方が絶妙で…..よく分からないけど……なんだかとってもかっこいいよ!」

 ……ふぅ、こんなものかな? 久しぶりの旅行だし、何より一人旅なんて生まれて初めてだから、ふわふわと興奮で自分がうわついているのが分かる。とにかく、スケジュールだけは、しっかりと組んだつもりだから、それに従って動こう。どうやら、そろそろ次の目的地へ出発しないといけない時間みたいだ。
 「よし! 次の目的地は……地球の丸く見える丘展望館ね」
 あたしはナビに目的地を設定すると、アクセルを踏みこむ。車がゆるやかに加速して、ん開いた窓からさわやかな風が入りこんできた。


4.

 銚子駅から車を走らせて10分ほど、あっという間に地球の丸く見える丘展望館に到着した。
 「空、海、風、わたし……か……」
 看板に書かれたキャッチコピーを読み上げて、あたしつぶやく。そのキャッチコピーは、あたしに、かつて暮らしていた沖縄の風景を美しい風景を連想させた。あの頃は、空も海も風も、あたしの中に当然のようにあったのに、いつの間にか、それは遠い存在になってしまったような気がする。自然をじっくり感じに来たのなんて、いつぶりだろう?
 あたしは足を進めて、傾斜をあがった先にある建物のなかへ入った。どうやらここから、あの看板にプリントされた雄大な景色を臨むことができる展望台に通じるらしい。
 「これは……」
 まっすぐに展望台を目指すつもりだったあたしは、館内の展示物を目にして思わず足を止めてしまっていた。

「…………」

「…………」
 同じスペースに、他にも「空飛ぶ円盤」が銚子で目撃された後日に謎の金属片が発見されたことを伝える昭和31年の新聞記事が展示されていた(これは「銚子事件」と名前がつけられているらしい)もしかして銚子はそういう不思議な現象に縁のある土地で地球の丸く見える丘展望館はその中心となるパワースポットなのかもしれない。……屋上から臨む絶景のパノラマ、その大いなる自然にこの小さな自分を投げ出して、「空、海、風、わたし…」に浸りたかったのに、雄大な景色を眺めながら、ふとUFOコンダクティー武良信行氏とウンモ星人の2ショットを思い出してしまいそうだ。振り払えない懸念や、色々と湧き上がる疑問に重くなった足を進めるが、あたしはすぐにまた歩みをとめてしまう。

 「LOVE……FORTUNE?」
 どうやら自分の名前と相手の名前を入力して、恋愛運を診断するゲームらしい。そういえば「あの人」が輝日東でよく行ってたゲームセンターにも同じようなゲームがあったっけ。そこで「あの人」は森島先輩とこのゲームを遊んでいたんだ。そこでそれなりにいい結果が出ていたようだけど、きっとあたしだったら……もっと……。 
 「……はっ!」

 気がつけば、全く無意識のうちに「あの人」の名前を画面に打ち込んでしまっていた。どうしよう、ここから、相性を占う相手の名前を入力するようだけれど、あたしの名前を打つわけにはいかない。所詮はゲームだと分かってはいても、どのような結果が出るにしろ、「あの人」への執着の再燃につながってしまいそうな気がする。もうゲームのことは忘れて先へ進むという手もあるけれど、お金はすでに筐体へ吸い込まれてしまったから、それもまた躊躇われる。悩んだ末に思いついた名前を入力し、ゲームを進めることにした。

 「ふん……何よ、結局63点じゃない」
 診断結果が出力された用紙を見比べて鼻で笑う。かつて「あの人」が森島先輩と遊んだ診断ゲームでは、「M・H」(森島はるか)の場合が30%、「森島」を先輩のミドルネーム(彼女はイギリス人と日本人のクォーターなのだ)の「ラブリー」に変えた「L・H」(ラブリーはるか)の場合は95%となっていたが、このLOVE FORTUNEだと、どちらの場合も63点に留まっている。
 「結局ゲームはゲームってことよね…..」
 晴れやかな気持ちで私はLOVE FORTUNEを後にし、軽い足取りでふたたび屋上を目指して歩きはじめた。

 「エレベーターの注意書きが可愛い!」


5.

 「わぁ……」
 屋上へたどり着いたあたしは、眼前に展開された光景に思わず声を漏らした。
 海に面して孤を描く岬とそこに築かれた人々の営み、そして空が、開かれた視界のなか、いっぱいに広がっている。
 本当に素敵な景色。眺望のスケールに差ことあれど、あたしは地元(の隣街の輝日南にある)丘の上公園の景色を思い出していた。
 「…………」
 丘の上公園には、本当にいろいろな思い出がある。「あの人」が深い深い傷を負ったクリスマス・イヴ。そして、あたしが「あの人」を「悪い子」から守ろうと決意した聖地。……それも遠い昔の話だ。「あの人」はもうその傷を越えたのに、あたしだけがあの丘の上公園から離れられずにいて、今も、この景色と丘の上公園の風景を重ねている。
 ……ここから、やり直すんだ。「あの人」と同じように。
 「あたしはあの人に近づかない、近づけない、会えない、連絡できない、大丈夫……」
 涙をこらえながら、他の人に聞こえないように、小さな声であたしだけの呪文を唱えた。


6.

 地球の丸く見える丘展望館を後にしたあたしは、すぐ近くにある長九郎稲荷神社へ立ち寄った。

 鳥居の一部が魚の形をしている不思議な、こじんまりとした神社で、とても可愛い。真詩が見たら、喜んだろうな。家に帰ったら写真を見せてあげよう。周りに人がいなかったため、憚ることなく写真を撮影することができた。

 神社は海に面して建てられているため、潮風による劣化からか、塗装がところどころ剥げ、若干痛々しさは感じるものの、それはそれで味わいがある。……といっても、変わった鳥居があるというだけなので、参拝して、写真を数枚撮影して、周辺を軽く散策すると、あたしは早々に神社を後にした。

 予定では、今日のうちに他にも行きたい場所があったけれど、日も沈みはじめたから、明日にまわすことにして、あたしは今夜の宿泊先である■■旅館へ移動した。部屋へ入ると、初めての一人旅で張り詰めた緊張の糸が切れて、へなへなと座布団の上に腰をおろした。テーブルの上には湯呑とお煎餅が用意されていて、そばに置いてあったポットを傾けると、あたたかいお湯が出ることに感動した。素泊まり5,500円なのに、こんなにおもてなししてもらえるなんて……! 一人でどこへ泊まるか決めるのも、電話で予約をするのも初めてのことだったから勝手がわからないけど、これが当たり前なのかな? そんなことをぼんやりと考えながら、あたたかいお茶で、ほっと一息をつくと、これからのことを考える余裕も生まれてきた。さて、これからどうしよう? もちろん晩御飯のこともあるけど、それ以上に旅館のフロントでたまたま見かけたポスターのことであたしは頭を悩ませていた。
 「灯籠流し〜祈りの夕べ〜か……」
 灯籠流しは板や麦藁でつくった精霊舟に火を灯した小さな灯籠をのせて川や海に流す盆の行事の一つで、どうやらたまたま今日、近くの河川公園で開かれているらしい。単純に灯籠流しを見たことがないのと、来る途中に見たあの大きな川にぽつぽつと灯籠が浮かんでる光景は幻想的なんだろうなと思って興味が湧いたんだけど……。
 「あたしが行ってもいいものなのかな……」
 亡くなった人を偲ぶための神聖な儀式に、地元住人でもない部外者のあたしがこんな軽い気持ちで足を運んでるいいものなんだろうか……。
 ああでもないこうでもないと考えてるうちに刻一刻と時間は過ぎていく。考えたってしょうがない。せっかくここまで来たんだ。小さな後悔も残したくない。遠目で邪魔にならない様にこっそりと一人で見に行こう。湯呑みに残ったお茶を急いで飲み干してあたしは身支度を整える。なんだかいつもより行動的になっている自分がいる。誰も自分のことを知らない旅先の土地で、あたしの心は身軽になって久しぶりに弾んでいた。


7.

 河川公園に到着すると、川に面して広がる人の波が見えた。どうやらすでに灯籠流しがはじまっているみたいだ。人波の後ろに立って、爪先立ちになり、隙間から川の様子を覗いてみると、日が落ちて、暗く沈んだ川面に、暖色のあたたかな光がぽつぽつと浮かんでいるのが見えた。美しく、静かで、厳かな光景だった。人の間にも、祭りのような騒がしい喧騒はなく、さざなみのように穏やかなざわめきだけがあった。こうやって灯籠を眺めている人一人一人のなかに物語があるんだろうな。そのスケールに圧倒されながら、思わずどんな人が来ているんだろうとちらちら盗み見ていると、ある家族の後ろ姿が目に入った。小さな女の子を挟んでカップルが並んでいる。夫婦だろうか? とても若そうだけど、あの人たちも誰かの弔いにきているんだろうか? もしかして、あたしと同い年くらいかもしれない。女性のほうが子供を抱きあげて耳元で何かを囁いている。何を言っているんだろう? 気がつくと、あたしは灯籠ではなく、この家族から目が離せなくなっていた。
 どうして、あたしはこの家族のことがこんなにも気になっているんだろう? しかも、この家族を見ていると、なぜだか、気持ちが落ち着かず、緊張してしまう。心が囚われて、目をこの三人から離すことができない。
 いや、あたしが目を離せないでいるのは、この家族というよりも、このカップルの男の人の方なんだ。あの背丈、体型、髪型、雰囲気……この人は「あの人」にそっくりなんだ。
 川を見ていた男の人が顔を動かすと、その横顔を見ないようにあたしはうつむいた。「あの人」のはずがない。「あの人」がここにいるわけがない。「あの人」は輝日東で就職して、結婚して、家庭をもって、今もまだそこにいるはず。こんな大型連休でもなんでもない日に、わざわざこんなところまで来て、地元の人のための催事に顔を出している可能性は限りなく0に近いはずだ。そう頭では理解し、自分に言い聞かせながらも、心は静まらず、体はこわばる。頭の片隅に、もし「あの人」だったらどうしようと考えている自分がいて、そいつは興奮しながらおぞましい計画をたてはじめている。見て見ぬふりをして、ここから立ち去ればいいだけなんだ。実際、もし輝日東で偶然「あの人」と出会ってしまうことがあったらそうしようと決めていたはずなのに、地球の丸く見える丘の頂上で「あの人」のいない人生をやり直すと決めたばかりなのに、こんなにも簡単に揺らいでしまう自分の弱さが悲しく、滑稽だった。
 しかし、情報としてしか知らなかった「あの人」の家庭が目の前に、すぐ手の届く距離にあるかもしれないと分かると、知りたい———という強い気持ちがふつふつと湧き出てくる。その気持ちはあたしにとって、どんな欲望よりも強く自分を突き動かす衝動だった。でも、この衝動に抗えなかったために、あたしは取り返しのつかない失敗を繰り返してきたんじゃないか。「あたしはあの人に近づかない、近づけない、会えない、連絡できない、大丈夫。あたしはあの人に近づかない、近づけない、会えない、連絡できない、大丈夫……」呪文を唱えながら、恐る恐る顔をあげる。「あの人」かどうか確かめない限り、あたしはここから一歩も進めない。人の群れのなかで、視線は一直線に、本能的に、その横顔に吸い寄せられる。
 「あの人」だ。
 その瞬間、魔法が解けたようにこわばりが消え、あたしは滑り込むように、そっと影の中に体を隠した。


8.

 スーパーのカゴの中に妻が食材を入れ、その上に娘がお菓子を放り込む。お菓子がたまると、妻がカゴからお菓子を間引きはじめ、それに気がついた娘が文句を言って、妻とああだこうだと言い合いを繰り広げる。夜のスーパーで展開される、「いつもの光景」を前に、カートを押しながら純一は思わず笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような平和な家族の肖像だなと、その大黒柱である純一はしみじみ思う。通りすぎのおばあさんからも「仲がいいのねえ」と声をかけられ、照れ笑いで返した。最愛の美しい妻に、玉のように可愛い子供。その夫であり、父親が、この自分だというらそんな現実をたまに夢ではないかと疑い、不思議に思うこともある。
(でも、僕だって何の努力もせずにここまできたわけじゃない)
 中学のクリスマス、今となっては遥か遠い昔の出来事に感じる、あの冷たい聖夜に受けた傷。そこから立ち上がろうと、血の滲むような努力をした高校時代。今となっては、中学時代の、あの傷すら、この景色にたどりつくため、自分に与えられた試練のように思える。
 (人生に無駄なことはないんだなぁ……)
 ふいに胸のうちに湧いてきた実感に、自ら同意するように、うんうんと頷いていると、ふいにバランスを崩し、膝をつきそうになる。何が起きたのかと衝撃を受けた先を見ると、娘が自分の腰に抱きついて、じーっとこちらを上目遣いで見ていた。妻が言うには、どうやらトイレに行きたいらしい。お母さんと一緒に行けばいいじゃないか、と言うが、娘いわく、「おかあさんとは、けんか中だから」とのことで、その大人ぶったような言い方に、思わず夫婦で顔を見合わせて微笑む。そして買い物のつづきを妻に任せ、純一は子供に手をひかれるようして店内のトイレへと向かう。とはいえ、女子トイレのなかへと入るわけにもゆかないので、トイレの出入り口に設置されたベンチに腰掛けて娘の小用を待った。
 ふと純一が足元を見ると500円玉が落ちている。それを拾い、誰かが落としたのかと辺りを見渡すが誰もいない。視線を感じたような気もしたのだけれど。500円という小さいような、大きいような拾い物を手のひらの上で持て余していると、ふと、そういえば妻は財布を持っていないんじゃないかと思い立つ。いつも家族で買い物に行くときは、基本的にお金を払う純一だけが財布を持つようにしてきる。その財布は今、純一のポケットの中にあった。とりあえず妻に電話をかけてみるも、つながらない。もしかしたら携帯電話も家に置いてきているのかもしれない。娘を待つか、妻の元に行くべきか悩んだが、  
 (……まあ、大丈夫だろう)
 そう自分に言い聞かせて、純一は娘を待つことにした。たかがトイレ、そんなに長くはかからないだろうし、それよりもここで娘から目を離したことが、後々に誘拐など大きな事件につながってしまうことのほうが恐ろしい。とはいえ、すぐに財布を妻に渡せるように、拾った500円を元の場所に置いて、ポケットから財布を取り出し、それを握りながら待つと、ほどなくして娘が出てきた。娘が生乾きの手を純一のシャツに勢いよく押し付けるのに苦笑し、その手を引き剥がして、共に妻を探しに向かう。そうすると、案の定、妻はレジにいて、会計の直前になって財布がないことに気がついたのだろう、自分の服のポケットやバッグの中をおろおろと確認している。急いで妻の元へ行こうと、純一は駆ける。娘も父の後を追おうとしたが、背後からパタリと何かが倒れる音が聞こえた。ふりかえると、お菓子の箱が床の上に落ちている。ついさっき娘がカゴにいれて、母親から取り上げられたお菓子だった。走り寄って、その箱を拾い上げる。すると、少し離れたところに、またお菓子の箱が落ちていることに気がついた。誘われるように、その箱を拾うために小走りする。お菓子の箱は点々とつづき、気がついたら娘は自動ドアを通り、店外へ出ていた。夜の帳が下り、あたりは暗く沈んでいる。
 「こんばんは」と声がした。
 目を向けると、月を背に女の人が立っていた。
 「橘……ちゃんだよね」
 女が話しかける。普段、苗字で呼ばれることがあまりないので、一瞬戸惑ったが、自分の上の名前であることを思い出して、こくりと首を縦にふる。女はかがんで、娘と目線を合わせる。その顔を見て、きれい、と娘は反射的に思った。
 「あたしは貴方のお父さんの……知り合いなの」
 女は手を差そうとするが、娘の両手がお菓子の箱でふさがっているのを見て、ごめんね、と手を引っ込める。
 「名前は、上崎裡沙」
 「かみざきりさ」
 娘は復唱する。うん、と裡沙は嬉しそうに微笑み、言葉を続ける。
 「本当のお母さんに会いたくない?」

9.

 車は街灯もない夜道を静かに走っている。娘は助手席で大人しくお菓子をつまみ、裡沙は運転しながら、さっきからひっきりなしに娘に質問を投げかけていた。
「ねえ、美也ちゃんって知ってる? 会ったことあるでしょ?」
「うん、みゃー叔母さん」
 みゃー叔母さん……その言葉の響きは、もし裡沙が立っていたとしたら膝を思わずついたであろうほどの衝撃をもたらしたが、グッとこらえて話をつづけることにした。
「あたしはね、美也ちゃんのねぇねなんだよ」
「ねぇねってなに?」
 娘がつぶらな瞳を向けて問いかける。その瞬間、はるか昔に同じような質問を幼い美也からされたような既視感をおぼえた裡沙だったが、はっきりとは思い出せなかった。
「美也ちゃんのお姉ちゃんのこと。本当はねぇねってよぶんだよ」
「へぇ〜……りさねぇね?」
「うんうん! りさねぇねだよ!」
 子供は可愛いなあと裡沙はしみじみ思う。そしてつい先ほどスーパーで見た、三人の姿を思い返す。橘くんと、橘くんの子供と、橘くんの奥さん。奥さんは裡沙と同じ輝日東高校の生徒だったが、お互いの接点は希薄で、裡沙が一方的に純一に近づく「悪い子」としてマーキングしていただけなので、相手は裡沙のことは覚えていないかもしれない。高校の頃の面影を残しながら、娘に小言をいうその姿は、ありきたりな母親そのものだった。そこには凡庸な幸せがあった。死んだ目でバイトをしながら働く実家暮らしの自分と比べると、あまりに惨めで、死んでしまいたくなるほどに。本当は、その凡庸な風景の中で、橘くんと、橘くんの子供と並んでいたのはあたしのはずだったのに。あの光景のために、ずっと橘くんを思い続け、守り続けていたのは、あたしだったのに。
 裡沙はポロポロと静かに涙をこぼす。その涙を純一の娘は不思議そうに眺めていた。自分が見られていることに気がついた裡沙は涙を拭き、娘を心配させないように笑顔を返す。娘は見ているのがバレて恥ずかしいのか、さっと裡沙から目を逸らしてぽりぽりとお菓子をまたつまみはじめる。車のスピードをゆるめ、裡沙はその横顔を噛み締めるように眺める。
 あの光景が手に入らないのなら、いっそ、違う世界へ。
 視線を前へ戻すと夜の闇になかに、灯台の光が輝くのが見えた。灯台が照らす光の先には海がある。ふいに裡沙は故郷の沖縄に伝わるニライカナイという理想郷を思い出す。それは海の彼方にある、神の世界だという。灯台の光はニライカナイを指す道標のように思えた。
 「ニライカナイへ行こう」
 静かにつぶやき、灯台を目掛けてハンドルをきり、アクセルを踏み出す。灯台の光に向かって車は加速していく。あの光、あの光の先に。沖縄の海を思い出す。澄んだエメラルドグリーンの、本当に美しい海だった。輝日東の海も、銚子の海も、幼いころに沖縄で見たあの海よりも美しくはなかったと裡沙は思う。あのころは、幸せだったな。沖縄にいたときは、太陽の光が大好きで、影に紛れてこそこそと行動することなんかなかった。いつから変わってしまったんだろう。真詩が生まれてからか、それとも沖縄から輝日東へ引っ越してからか。輝日東の小学校で、大嫌いで飲めなかった牛乳を、毎日代わりに飲んでくれた男の子がいた。人見知りで、友達もいなくて、先生にも言えず、どうすればいいのか分からなかった裡沙にとって、その男の子はヒーローのようだった。
 (家族の中で、あたしだけが牛乳嫌いだったんだよね)
 不思議とあの家族の中ではそういう、悪気はなくても裡沙だけが仲間外れになることが多いような気がした。いつの間にか家庭の中での居心地が悪くなり、純一と美也の家族になりたいと思うようになっていた。
 「美也ちゃんのおにいちゃんのこと。本当はにぃにってよぶんだよ」
 「へぇ〜、裡沙ちゃんってものしり〜。にーにーかぁ」
 「ちがうの。『にぃに』だよ」
 「にぃに? にぃに……」
 「そうそう! ちゃんと言えるね!」
 「にぃに! にしししし」
 幼い日の美也が笑う。美也ちゃんのねぇねになれたらよかったのに。
 「みゃーもいるし、みんなもいる! だからにぃには大丈夫だよ!」
 日の光がカーテンに遮られた薄暗い教室で高校生の美也が叫ぶ。隣には純一がいて、裡沙と美也の間で思い詰めた表情で佇んでいる。
(でも、美也ちゃんは知らない。あのクリスマス・イヴがどれだけ冷たかったか)
 夜の丘の上公園。日が沈む前は賑やかに遊んでいた子供たちは姿を消して、寂しく静まり返り、冷え切ったベンチの上で、純一はデートの相手を待っている。約束の時間はとうに過ぎた。寒さが堪えるのだろう、時折身じろぎしながらも純一はその場を離れようとしない。裡沙はそんな純一を、距離をとり、隠れて見つめていた。純一越しに色とりどりの光を放つ輝日東の街の灯りが見える。聖夜を祝福するように光り輝く街とは対照的に、丘の上公園はわずかな街灯があるばかりで、冷たく、暗く、静まりかえっている。
(あたしが、橘くんを守ってあげる)
 裡沙は薪原美佳がこないことを知っていた。
 純一が薪原をクリスマスデートに誘ったと知ったときはショックだった。そして、その薪原美佳が裏で純一を笑い物にするために友人と画策しようとしているのを知ったときは殺意すら湧いた。だから当日の待ち合わせ場所について、裡沙が純一からだと嘘の伝言をつたえて、情報を上書きした。薪原はいまごろ、あの街の光のなかで、現れない純一を待っているか、あるいは純一とは違い早々に見切りをつけて帰ってしまっただろう。
 だから薪原美佳はこない。その薪原美佳を待ち続けて、純一は今、まさに裡沙の目の前で傷つき、心から血を流している。
 しかし、裡沙は純一を救わない。
 裡沙は、そんな純一を、影から見つめたまま、傷が体を蝕み、取り返しのつかない深さに達しようとしている様を静観している。その瞳は、暗い熱を帯びていた。
 (あたしが、一生悪い子から守ってあげる)
 雪が降りはじめた。そのことに気づき、純一は空を見上げる。この絶望的な状況の中でも、静かに雪が降る景色は、純一の目に美しく見えた。純一は立ち上がり、しばらくの間、心の中で区切りをつけているのだろうか、動かなかったが、踏ん切りをつけて、そのまま丘の上公園から街へつづく道を歩きはじめた。肩をおとし、この世の不幸すべてを、その双肩に背負ったかのようだった。途中、ゴミ箱に気付いて立ち止まり、鞄の中から小さな袋を取り出して、それを振りかぶったが、思いとどまり、袋をそっとゴミ箱のなかにおさめると、丘の上公園をあとにした。その後ろ姿を見届けて、裡沙は立ち上がり、ゴミ箱の中から純一が捨てた袋を拾い上げて、中に入っていた小箱を取り出し、それを開けた。小箱におさめられていたのは、ペアのアクセサリーだった。裡沙は箱をそっと閉じて、慈しむように握りしめた。そこに込められた純一の想いも傷も自分の中に取り込み、自らの一部にしようとしているかのようだった。そして、小箱を握る力をゆるめ、それをそっとポケットに入れ、街へ帰ろうと足を向ける。
 街は一層輝きを増して、今は眩しいくらいになっていた。丘の上公園は、海から離れているはずなのに波の音がどこからともなく聞こえてくる。光の方へ目を凝らすと、幼い日の純一と美也が遊んでいるのが見えた。
 ニライカナイだ。
 その光を目指して裡沙は走る。あの光。あの光の先に——。
 「りさねぇねっ!」
 突然の絶叫に反射的に裡沙は足を踏み込む。急ブレーキがかかり、車が完全に静止すると、体が前のめりに弾んだ。目の前には一面の闇が広がって、時折灯台の光がその闇の中をはしるのが見える。自分の息の音と、水際を荒々しく叩きつける波の音がきこえる。あと少し遅れていれば、闇の中にぽっかりと口を開けて広がる海の中へ沈んでいただろう。となりから泣き声がきこえた。純一の娘が涙を溢れさせながら、大声で泣き叫び、父と母を呼び求めている。
 (……どうして、こうなったんだろう……)
 裡沙の頬にも次から次へと涙が流れた。
 (どうして……)
  裡沙は恐る恐る純一の娘に近づき、震えるその体を抱きしめた。娘は泣きながら、裡沙の体にしがみつく。その体は、あたたかった。
 (あたしは……いつから……)
 泣き続ける純一の娘と丘の上公園の純一が不意に重なったとき、裡沙の口からも嗚咽が漏れ、止まらなくなった。


10.

 スーパーへもどると、パトカーが灯す赤いランプが見えた。警察官の前には純一とその妻が並び、一生懸命になにかを訴えている。娘の特徴を伝えているのかもしれない。その警察官たちの間を縫って、娘は父と母の元を目指して走る。娘の姿を見ると、夫婦はそろって涙をあふれさせて、両手を広げて娘を抱きとめる。その姿を、影から見守っていた裡沙は何もかも正直に打ち明けようと、前へ出る。闇から現れた裡沙を警察官は不審げに眺める。そして純一も裡沙の姿に気がつき、すぐに大方の事情を察した。怒りよりも、悲しみがこみげた。
 裡沙が口を開こうとするより前に、純一は娘に向かって「一人でどこへ行ってたんだ?」と、とぼける。娘は少し間をあけて「……うみ」と答える。妻や警察官が口々に娘に向かって、どうして海へ行ったのか、どうやって行ったのかを尋ねている間、純一は裡沙に対して、ここを離れるよう、合図を送った。その表情には隠しようのない、深い悲しみが滲んでいた。裡沙は涙が溢れてしまうより前に、純一に向かって、頭を下げた。そして、純一たちを背に、静かに影の中へと消えていった。
 

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