「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡」に行ってきた話

当時「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡」が世界文化遺産に登録された意味が全く分からなかった。

最近縁があって現地を訪問することができ、その考えがいかに浅はかであったかに気づくことができたので紹介する。

戦国時代にイエズス会がカトリックの布教を求めて日本にやってくる。織田信長がこれを後押しし、日本各地でキリスト教が受け入れられる。最も栄えたのは長崎であったよう。

しかし、天下統一後の1587年、豊臣秀吉は拡大するキリスト教に不安を感じ、バテレン追放令を発布する。これにより日本ではキリスト教の布教は認められなくなった。徳川幕府になってからもこの政策は続き、1614年には禁教令が発布される。民衆がキリスト教徒であることも禁じられた。

1637年に起こった島原の乱以降、五人組や踏み絵、寺請制度といった方法で幕府は一層取り締まりを強化。表向きにはキリスト教徒は日本からいなくなったが、自分たちでこっそり信仰を続けた「潜伏キリシタン」がいた。

時は過ぎ、鎖国政策が終わった1864年に天主堂が完成する。ここで信徒発見の奇跡が起きたのだ。地元の民がこの天主堂を訪れ、神父の前に跪き、自分はキリシタンであることを伝えたのである。

バテレン追放令発布から250年以上にわたり、神父無しで7世代にわたって祈りを捧げてきた人々がこの地にいた。この静かな戦いはどれほどのものであっただろうか。ようやく堂々と自分の信教を伝えることができ、サンタマリア像に出会った人々はどのような気持であっただろうか。その思いは計り知れない。

天主堂の荘厳な雰囲気がより一層その畏敬の念を駆り立てる。この世界遺産というのは単に遺跡に対して与えられているわけではない。その地で祈りを続けた人々に対して与えられていることに気づいた。


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